贅沢と瞑想

今週のお題「2017年にやりたいこと」瞑想を深くすると日常的な習慣となり、その日瞑想をスキップすると何か自分の心身がスッキリしない。気持ちが悪い。私は修行中はもちろん、今現在も瞑想の真っ最中で毎日朝晩欠かさず続けている。何故スキップした時にはスッキリしないで気持ちが悪いかといえば、習慣となっているものを1日でも欠いた場合は心理的なプレッシャーとなって罪悪感となるのかもしれないが、我々氣功修練者には他の重要な意味合いがある。1日の間はさまざまな出来事や人間と出会っている。それはある意味氣の交流をしているわけで、良い氣との交流もあれば、悪い氣の交流もある。この現代社会では悪い氣との交流がほとんどである。そんな場合、自分の氣は汚れてしまう。その悪い氣を我々は邪気と呼ぶ。その邪気を自分の心身から追い出して良い氣との交換が瞑想の主目的となる。つまり、良い氣、すなわち正氣と交換できず、邪気が体内に残ってしまうので気持ちが悪くなんとなく落ち着かない。そんな場合は体内の氣が上に上がってしまうので気持ちが悪くなる。私の教えた者が瞑想をせずに瞑想を深めないで自分の業で、我欲を求めて、安易な気持ちでカネと贅沢の追求を始めた結果、ついに贅沢に快感を覚えて堕落した生活を送ったらしい。こんな時はさまざまな邪気と感応して変な顔つきになったり、言動が他の者から見ればおかしく思う事となる。犯罪になるような事も平気でするようになり、自分では悪い事をしているとは気づかない。強欲が瞑想の主目的、主体となるからだ。シッカリと自分の為そうとする事が自分の為か、他の人の為か、いつもチェックしておかねばならない。私もカネが必要になっている。が自分の私的な理由ではない。贅沢には興味がない。簡素でシンプルな生活に満足で氣功の練習が出来る生き様に満足してそれ以上の事に手を出したくはない。道場生の数が増えて欲しいと思う理由は我々の自前の道場があったら道場生がもっと修練に打ち込めるのではないかという思いからだ。この道場を建設出来るまでは私的な旅行や高級なクルマなどの贅沢はしない。人間の心からの思いは氣のエネルギーであって、私的な欲がなければ形となって現実化する。何より邪氣が心身に残らない。いつも氣分が良く、幸福感に浸っていられるのだ。幸せになる秘訣である。太田氣功道場に集まる道場生は私の家族なので道場生全員に幸せになって欲しい。