パクリの尤氏意拳

あの噂の尤氏意拳日本拳法を除いてすべてパクリである。例えば、大本教の難波先生、食制の井上先生は私も存じ上げていた先生方であるが、難波先生を出すことと井上先生を出すことで自分の権威を高めようと虚しくあさましい努力を続けている。東洋医学の大研究家という印象を与えようともしているが、まともに医学を学んでいた事は、私は聞いてない。せいぜい整体師の資格があるくらいである。患者を取って腰痛、胃痛を治した事も聞いてはいない。大本教を除き、私を目標として真似ているとしか思えない。私がヒゲを生やせば、真似をする。私の中医学の医者と言えば、その跡を追い求めて皇漢医学の研究者という。私がアメリカでドイツのクルマに乗っていると巻き上げたカネでドイツのBMW を乗り回す。私の猿真似とパクリである。一体どういう人間なのだろう。気持ちが悪い。私はとにかく、私が生涯の師と仰ぐドクター尤をダシに使われた事が許せない。しかし、ドクター尤や神様を利用したことの因果応報は怖ろしいことになる。理屈では習った筈だが、本人の我欲で目が見え無くなったようだ。神様はカネやモノや肩書きに執着心を持つ者にはチカラを貸さない。宇宙のエネルギーも

秩序を乱す者にエネルギーを注ぐことはない。これからの人生を借金返済だけでも足りないものに加えて、このパクリの尤氏意拳をどのように処理して死を迎えるのか?時間はない。メシが、酒が美味いなんて言ってるヒマはない。借金返済に又返済意思のない借金をするのだろうか?なんでも真似とパクリの人生はすぐ破綻する。汚名を残す人生は、私には耐えられない。人生における価値観が問われている。私は汚名を選ばない。瞑想によって得た清貧と共栄共存と誠実を選びたい。巻き上げた汚ないカネも要らない。一時期乗った高級なクルマはもう乗らない。私が今欲しいモノは心と氣が通じる道場生、仲間と、もっともっと強く重い氣だ。その願いも毎日の絶え間ない瞑想と修練で叶えられる。私の人生の高みを目指して一生懸命に何時ものように

修練を繰り返す。このパクリの尤氏意拳は私の反面教師なのだ。こんな人間にはならない、こんな団体にはならない。