心を豊かに

豊かさを人生に求める時に勘違いして、カネ、モノ、豪華な家などの目に見える一時期だけの外側のことに執われる者が多い。そんなことに執着心を持つ時の行為行動は汚なく醜く見苦しい。真の豊かさは上述の物質的なものではなく、本当は心の豊かさではないだろうか?心が豊かで幸せであれば、見苦しい真似や醜い行為行動は出来ない。そんなことはする必要が無くなってしまう。理性を取るか、本能を選ぶか?ここの時点で、本人の人間性を知ることになる。人間の心の幅は広く、天使から悪魔の幅まで自分が選択することになっている。人生の岐路は一回限りの一発真剣勝負で、後で後悔しても戻ることは出来ない。だから、いつも心豊かに人生の岐路をより良い選択をしないと後で悔いても遅いということになる。氣功の尤氏長寿養生功は瞑想を主体として、家でも瞑想を勧められるから、練習以外に毎日、瞑想することになるので、瞑想が習慣化する。そうすると自然に心の整理がついて、本人の性格まで変化する。無論、瞑想しても悪い性格や根性が直らない者がいることがある。心がいつまで経っても豊かにならずに他の道場生から鼻つまみ者として扱われているのを見たことがある。みんなに嫌われていた。心が醜い者は顔や体型までも醜くなるものである。心が顔に表れる。表面は隠せても、中身の心にフタは出来ない。特に尤氏長寿養生功は運動をして、瞑想がどんどん深化して行くから深くなった分だけ心の底の溜まったゴミのようなものが浮き出て来るので隠すことは出来ない。たまに道を踏み外してしまう者が出てくる。そんな時には、回りにいる道場生がビックリするほどにそのゴミが表に出て来てとても醜い行為行動をすることになる。瞑想の副産物である。修行僧のように絶えず欲望を制して瞑想しないと私欲が変な形で表に出て来て遂に氣が触れたのではないかと思うほどに鼻高々に傲慢な態度になる者もいる。これを氣功の世界では偏差と呼んでいる。偏差を起こした者は、天狗になったように自分に自信タップリで、いわゆる社会生活を営むことが出来なくなることもある。簡単に言えば、氣が狂った状態だ。自分の言動におかしな点に自分でも気づかぬようになって、道場生から鼻つまみになって嫌われる。特に武術家に多い。ドクター尤老師はそんな輩に教えたいとは思っていなかっただろう。一つ私が大笑いしたことがある。ある日に意拳のミーティングがあって、私も参加していたのだが、突然、ドクター尤老師の四大弟子の一人が来て、滔々と今日俺は七時間も站椿功をしていたんだ!と大声で言うのであった。後で私の先輩と顔を見合わせて、ニヤニヤしていたのだが、ドクター尤老師は一時間以上の站椿功は無駄なことだから、一時間以上の瞑想はするだけバカのやることだからやるな!と言っていた、と二人で話して大笑いをしたのである。ドクター尤老師と師母がいなくなって、歳下の我々道場生をバカにした態度で自分を大先生にして印象づけようと、七時間の站椿功の話しは事情を知っている我々には通用するはずもない。恥の上塗りとなった。日本にもそんな者がいるかもしれない。