継続は力なり

今週のお題   継続は力なり

継続は力なりとは言うが、継続にも質がある。特にこの氣功では長い年月をかけて習得せねばならないさまざまなことがある。その時のモチベーションが何であるかが問題になる。私が悪縁をもって知り合った者は氣功習得のモチベーションは、目的は労少なくしてカネを儲けることであったが、私はといえば、私が訓練した武道に失望して見切りをつけて、どのようにしてこんな老齢の女性が触りもせずに軽々と大男を投げ飛ばせるのだろうか?という興味が最初のモチベーションであった。修練を重ねるごとにその興味がこの類い稀な氣功に対する尊敬と愛に変わっていった。私の人生に対する価値観が変わり、この氣功を世に広めよう、特に私が日本人であるので日本の社会に拡めようという使命感が私の心を支配するようになった。カネ、カネ、カネ

と頭の中はそればかりという者はイヤという程見てきた。そんな奴ほど見苦しい生き様で、どこかで頭を打ち、失敗してもっと悪い状況になる場合が多い。特に氣功を修練することはカネ儲けとは相反するようである。私はこの氣功習得の為に家財道具全て売り払い、多くの月謝を払って毎日通ったのである。師母が歳老いていつ亡くなってもおかしくない状況であったので、少しでも多くのものを学びたいという気持ちであった。中国で消えかけていた、そしてアメリカでも消えかかって、そして又、日本でも正統なこの氣功が捻じ曲げられて伝わってきたその時に私がアメリカより帰国して今はやっと正統な内容をもって伝承が続けられているのである。カネは生きていくには大事なものではあるが、伝統文化芸術の継承に必要なものではない。真に必要なことは伝承する者がその文化芸術を  極限にまで愛することではなかろうか。この私がとても愛した、愛しているこの氣功は来年にはハワイやタヒチで講習会を開くような状況になって来ている。日本を飛び出して世界に拡まっていく勢いだ。トコトン修練すれば、世界に通用するレベルまで修練すれば、カネは後から付いてくるものである。そして、人を叩いて、蹴っ飛ばす事が今の社会に実用的か有用で、有益なものであろうか?チャンピオンになったと独り自慢することは社会にどんな意味を持つのであろうか?もっと人間にとって役立てる事を考えた方がより建設的で理想的な道ではなかろうか? 三十年ほどこの氣功を訓練してみて、心のねじれた者を二十五年ほど見て来た、カネの亡者をたくさん見て来た私が近年、思う事である。

アイヌ語と神道の祝詞

少し前だったが、 NHKアイヌ語の特集を見て感銘を受けたので、ここに紹介したい。言語学者によるとアイヌ語神道祝詞と同じ調子であると言う。昭和の時代にかなりの量のアイヌ語の音声が残されていた。その音声を私が聞いたところ、確かに祝詞のような響きがあって、聴いているうちに何かしら懐かしい思いがあって自然に涙がこぼれるのであった。私の昔の先祖ではないかとの気持ちがいっぱいで氣が昂ぶっていたかも知れない。驚く事に、アイヌの狩猟漁業権を巡る個人間のトラブルは大きく争う事なく、まるで神道祝詞を奏上するように夜通し徹夜で延々と唄うように平和的な話し合いで解決したらしい。明治期に及んで、北海道土人法という悪法が作られて、日本への同化政策が取られた。アイヌは以前のようにサケ漁をすることは出来なくなった。アイヌ語は禁止されて日本語が奨励される、土地は奪われ、若者は軍隊に徴集される。内地の日本人に差別されて、職業は最下層のものばかりである。まるでアメリカのIndianと同じだ。白人が有色人種を差別することは当然といえば当然であるが、日本人が日本人の祖先を差別することは許されない。あってはいけないことだ。どこの国であれ、力ずくで、権謀術数と覇権主義と利己主義で他人を利用し、己れの欲しいものを手に入れる事は許されない。私はこんな奴らを日本人とは認めない。告発の動画でも言ったが、タヒチのノライヌの方が礼節をわきまえている。犬畜生以下の行為をして、逃げ回っている。アメリカにいた時には、そんな奴は徹底的に抵抗して、やっつけてやったこともあったが、日本にこんな恥な奴がいようとは思っても見なかった。私が日本にいない時にウソのつき放題をして、己れの格上げをしていたようだが、私が日本に帰国した以上はそんなでまかせや嘘はさせないつかせない。ましてや嘘ついて私の道場生からカネを巻き上げ、借金して返済もせずに、逃げ回っているなど武術家としてあるまじき行為であり、そんな奴は武術家、武術界の恥である。自分で自分を武術家などと豪語するんじゃない。尤氏意拳などとうそぶくんじゃない。己れの実力と身の程をわきまえろ。尤氏意拳と空勁の名称を使うな。普通の学歴と常識があればその名称は使えない筈だ。何なら私の道場の指導員と氣の勝負をしても良い。どちらが勝って、どっちが負けるかは勝負の前に決まっている。こんな奴は日本の社会に益なく、害を及ぼすだけである。私の五十年に及ぶ武術関係者との交わりの中でこんな奴は見た事も聞いた事もない。満足に練習した事もなく、継承を認められた事実もなく、師母と苛酷な訓練をして己れ一人で継承したと言っている。まさにキチガイに刃物を与えてしまった。早く日本の社会から消えて欲しい。キチガイに刃物を与えてしまったのは私の責任であるが、普通の学歴と常識があって精神に異常が無ければ、こんな恥な事をするであろうか?十一月講習会の動画と神田吉隆が秘技と呼んでいる動画と比較してみるがよい。目が悪く無ければ容易に理解出来る筈だ。

日本は世界一

今週のお題「2017年にやりたいこと」

私はアメリカに四十三年間住んだ後、2015年2月に遂に日本に帰国した。私が帰国して一番最初に気づいたのは日本が世界一の国であることだ。日本には日本の国が世界一とは思わない人が相当数いるようである。実は私もアメリカに住んでみるまでは日本が世界一とは思っていなかった。私はアメリカでの氣功の訓練のせいで膝を悪くしてそのあと手首を大骨折してしまい、日本に帰国してから国も認める立派な身体障害者となった。毎日杖をついて歩っていると見知らぬ人が私に声をかけて、大丈夫ですか?と心配をしてくれるのは日常体験している事である。こんな事はアメリカでは経験したことは無い。日本人には他のどの国にも無い優しさと親切心がある。そしてこの国の国民健康保険介護保険のお陰で私には医療費の支払いがビックリする程少なく助かっている。こんな制度も外国には無い。イギリス位であろうか。この医療制度も私は世界一と思っている。北欧の国に比べれば、劣るかもしれないが、機能はしている。帰国してすぐに歯医者へ行ったが、治療が終わって、トイレを使って驚いた。便器の前に立った時に便器のカバーが自動的に開いた。ビックリした。アメリカのホテルでもこんなトイレは無い。公共のトイレは粗末で汚い。これも世界一である。どうりで外国人が日本に来て驚く訳である。私はヨーロッパ、中南米、東南アジアの国々を訪れたことがあるが、日本の国ほど、民度が高く、設備、インフラが整って清潔な国は無かった。私は日本の文化芸術が大好きである。好きというより愛している。私は日本人として生まれたが22歳の時にアメリカへ行ってから43年の月日が流れてしまった。アメリカでは日本を、私の故郷の東北を懐かしくホームシックになったものである。今や日本に戻り、朝起きてから夜寝るまで日本語を喋り、自転車に乗って買い物へ行けば日本の物が溢れて日本のものに囲まれて、周りを見渡せば日本人がいる。私には同胞に囲まれて心地良い事ばかりである。何より安心で安全だ。その上に、私が命をかけて習得した氣功を教えて生活をしている。時折、お金が足りずに困ることもあるが、毎日こんなに楽しく嬉しい日々を過ごしているので別に苦にもならない。ましてや、私には修練を共にする家族の道場生がいる。そして今では私の同志で仲間である道場の指導員がいつも一緒に居てくれるので、寂しいと思う事もない。欲しいものは高いものではないが、全て手に入り、揃っている。高級なものは欲しいと思った事も無い。毎日幸せでいっぱいだ。私は右翼ではない。超リベラリストと自認している。が、日本に生まれて育った事がどれほどに特殊で素晴らしい事なのか、大抵の日本人は当たり前のこととして気づいていない。日本が日本人がほとんど全ての分野で世界一であることを。日本人には特殊な資質がある。どんな事でも手につけた事はどんなものでも完璧に仕上げる事である。今は完璧でない制度であってもいづれは完璧な制度となって日本人に寄与することであろう。

 

贅沢と瞑想

今週のお題「2017年にやりたいこと」瞑想を深くすると日常的な習慣となり、その日瞑想をスキップすると何か自分の心身がスッキリしない。気持ちが悪い。私は修行中はもちろん、今現在も瞑想の真っ最中で毎日朝晩欠かさず続けている。何故スキップした時にはスッキリしないで気持ちが悪いかといえば、習慣となっているものを1日でも欠いた場合は心理的なプレッシャーとなって罪悪感となるのかもしれないが、我々氣功修練者には他の重要な意味合いがある。1日の間はさまざまな出来事や人間と出会っている。それはある意味氣の交流をしているわけで、良い氣との交流もあれば、悪い氣の交流もある。この現代社会では悪い氣との交流がほとんどである。そんな場合、自分の氣は汚れてしまう。その悪い氣を我々は邪気と呼ぶ。その邪気を自分の心身から追い出して良い氣との交換が瞑想の主目的となる。つまり、良い氣、すなわち正氣と交換できず、邪気が体内に残ってしまうので気持ちが悪くなんとなく落ち着かない。そんな場合は体内の氣が上に上がってしまうので気持ちが悪くなる。私の教えた者が瞑想をせずに瞑想を深めないで自分の業で、我欲を求めて、安易な気持ちでカネと贅沢の追求を始めた結果、ついに贅沢に快感を覚えて堕落した生活を送ったらしい。こんな時はさまざまな邪気と感応して変な顔つきになったり、言動が他の者から見ればおかしく思う事となる。犯罪になるような事も平気でするようになり、自分では悪い事をしているとは気づかない。強欲が瞑想の主目的、主体となるからだ。シッカリと自分の為そうとする事が自分の為か、他の人の為か、いつもチェックしておかねばならない。私もカネが必要になっている。が自分の私的な理由ではない。贅沢には興味がない。簡素でシンプルな生活に満足で氣功の練習が出来る生き様に満足してそれ以上の事に手を出したくはない。道場生の数が増えて欲しいと思う理由は我々の自前の道場があったら道場生がもっと修練に打ち込めるのではないかという思いからだ。この道場を建設出来るまでは私的な旅行や高級なクルマなどの贅沢はしない。人間の心からの思いは氣のエネルギーであって、私的な欲がなければ形となって現実化する。何より邪氣が心身に残らない。いつも氣分が良く、幸福感に浸っていられるのだ。幸せになる秘訣である。太田氣功道場に集まる道場生は私の家族なので道場生全員に幸せになって欲しい。

幸せになる源

今週のお題「2017年にやりたいこと」私は経済学者でも哲学者でもない。今年から世界がアメリカのトランプの影響を受けて振り回されて、混迷の時代が数年続くと思われる。このような時には何が必要になってくるのであろうか。大抵の人はカネと答えるかもしれないが私にははそれがベストな答えであるとは思えない。私が師と仰ぐドクター尤は中国の文化革命の際、上海の大きな立派な家は荒らされてカーペットまで引っぺがされて全て奪われてしまった。暴徒が去った後に何も無くなった家の中で師母に向かって、ハッッハッハと豪快に笑って、共産党の奴らは私の財産を全部全て持っていってしまったが、たったひとつ持っていくことが出来なかったモノがある。私の中にある氣だと言ったそうである。私がこの氣功を教えた者がカネとモノに執着心を持ち、恥な行為を犯して、今赤恥を世間に晒している。私はカネやモノで人間が幸せになることはないと思う。真に人を幸せにするモノは何ものにも屈しない強くて柔軟な心であると思う。そしてその強くて柔軟な心を作るモノ、手段は何かと言えば、瞑想と瞑想で培われる氣であると氣功を三十年修行した結果、カネやモノはすぐ消え去って一過性のモノであり、永久的に残るモノは強い柔軟な心と氣であると思うようになったのである。私はアメリカから日本に持って帰れた財産もなくケガで左手と左脚が不自由になって、今では要介護2の身体障害者である。道場生に指導の際はイスに座って行なっているが、指導に不自由を感じた事はない。氣は今や最終、最高の段階にあり、今までの私の氣功人生で最高のレベルに到達している。そして更に上のレベルを目指して修行中である。強い自分をこの混迷の世で作ることが今年から必要になって来るという事が今日の日曜日の最初の訓練の後の私の道場生に向けた言葉であった。そして我々の自前の道場建設に向けて道場生の数を増やす目標も掲げたのであった。

基礎訓練の重要性

私の主催する講習会に何人かの尤氏意拳のニセ団体からそこの生徒が参加していたのであるが、非常に驚いた。この意拳には他の武術にはない独特な基礎訓練法があるが、この参加していた生徒達は基礎訓練が基本が全く出来ていない。以前、大塚の道場で指導を任されていた今では私の道場で指導員達が見て私以上に驚いていたのである。一つ一つの型の押さえておかなければいけないポイントを全く出来ていない。氣も出ていない、体力もビックリするほど無い。もうこれ以上私から習うものは何もないと思っておこがましくも独り別派を立ててもやって行けると思ったらしい。その立てた別派の尤氏意拳の生徒の弱々しい基礎訓練。中国にはドクター尤と師母から習った史老師という先生が教えていることが判明した。この史老師がこのニセ尤氏意拳を見たら何と言うことであろうか。一時期でも私が教えて例えニセでも別派を立てた者が教える基礎訓練がこんな屁のツッパリにもならない、クソの役にもたたないシロモノに私でも笑うのにこの史老師はどんな反応をするのであろうか?私の道場ではより一層厳しく激しくキツイ訓練を道場生に課している。史老師は時折日本に来るとおっしゃっていたので、そのうち私の道場に来ていただき、このニセ尤氏意拳の練習場所も教えて是非とも親交を深めようと思うし、このニセ団体にもお連れして技術の向上を図りたいと思っている。その時はこの尤氏意拳の生徒達達の基礎訓練も見ていただいたらどうだろうか?私には隠す事は何もない。史老師は私には兄弟子にあたる方である。大いに親交を深めていきたいと考えている。実に楽しみな事だ。嘘をつけばいつかばれる、実力もないのに一派を立てれば、いつか物笑いのタネになる。赤恥をかく。この記事を読むニセ尤氏意拳の生徒は相当の時間が経ち、物笑いのタネになることをどのように思うのであろう?カネと時間の無駄になってしまうことをどう思うだろうか?人生の中の少しの時間も無駄にすることを後になって後悔しても遅い。これだけ警鐘を鳴らしても考えを変えない理由を考えよ。間違っていると気づく時は、真の男は敢然と道を方向転換するのだ。そろそろ回りを見渡して気づく時が来た。一度で良いから講習会に来て見よ。見るだけなら講習会費はいらない。その違いを見て見よ。ホンモノを見たくはないか?一度見てから決断しても良い。私は私のみならず、家族同様の皆を利用して奪うようにカネを巻き上げた輩を許せない。このニセ団体が消滅するまで徹底的に糾弾する。人生は長いようで短い。時間を無駄にするなと言いたい。

私の家族

私は私の妻を亡くして日本に帰国した。私の妻が唯一の家族だったので

また一人になってしまった。であるから私の道場生は私の家族のようなものである。というより、もう家族なのだ。私の家族を利用して傷つける者がいれば、家族の長として守ることは私の責任である。傷つけられてカネを奪われたならば追いかけて取り戻す、制裁を加えて謝罪させることは当たり前の話だ。ましてや、習ったことも無く、実力もない者が私の師匠の名前をつけて勝手に武術団体を作り上げれば、潰さなければならない。この愚か者は自分で悪い事をしていると充分知っているのである。では何故そんな愚かな事をするのであろうか?  カネである。己れの道場の賃料と生活費を稼ぐことが己れの人生で一番楽に効率良く出来る事を知ってその味を占めたので辞められない。それに己れをテレビにも出た武術家であって、己れを俗に言うセレブと信じ込んでいるから今更、変更出来ない。カッコ悪い。時折この輩が口にする言葉が気になってはいたが、まさかここまでアホな事をするとは過小評価していた私の油断と不徳であった。さすがにここまでトチ狂うと私が黙っている訳にはいかない。遅ればせながら、私が出来る事は全てしなくてはいけない。どうやらいまでもカネに困ってあちこち借りまくっているらしい。東京、大阪、いまでは鳥取と往き来するので交通費だけでもバカにならない。それに贅沢は既に身についている。カネはいくらあっても足りることはない。アホウで身の丈に合わない贅沢と見栄だけは大人であって、しかも人の前に出たがりである。これは日本語では何といえば良いのだろうか?明らかに正常な人間のする事ではない。性格異常者とでも言えば良いのだろうか?ハッキリ言えばキチガイだ。まさにキチガイに刃物である。キチガイは自分のしている事は間違えていないと思い込む。口は政治家もビックリするほどうまいから大抵の者は騙される。カネを持っている者に近づき、カネを引き出すことは天才的だ。日本の社会に泳がせて置くには危険な事だ。今でも尤氏意拳の中には、カネを少しの間貸してくれとか道場の為にはこれくらい用立てて欲しいなどカネの無心をされていることがある筈だ。気がつけばもう何年も経ってしまっていたなと言うことにならぬよう、注意をして欲しい。それにこいつの回りで死んでいる方が多い。不思議な事だ。大本の関係者、日本拳法の関係者、急にバタバタと亡くなっている。邪気が強くなっているのだ。深く関わると生命すら危うくなっている。氣のチカラをバカにしてはいけない。関わっている者がいれば、要注意だ。邪気に感応した者が邪気そのものになった場合、こういう風になる。じーっと言っていることとやっている事を一つ一つ検証するしかない。尤氏意拳の道場生の理性に期待するしかない。太田記