タヒチ講習会

今日パスポートを受け取り、少しずつ

タヒチ講習会の準備が整いつつある。

テレビ電話であちら受け入れ側と連絡が取れて日程が決まった。なんでも合計全タヒチの武術武道の人間が一堂に会するのだと言う。百名の人数になると言う。これまでの講習会の中で最大の規模になる。百名を触らないで投げることは

疲れて困難だろうが、そんなに心配はしていない。何故ならば、タヒチの人は全員が氣に敏感なのである。ほとんどの人は針一本で治せたし、三十年前に武道をしていた人間は全員投げ飛ばすことが出来たからである。行く前には訓練と瞑想を怠らず、準備万端にしてタヒチに行くからである。古いことわざに、準備あれば、憂い無し、とある。

介護問題

最近、家族の高齢者の介護について

家族の負担が大きくなって問題が起きていると言う。私も帰国してから姉たちの世話になって、彼らの負担が大きくなり、老々介護になっていると言われた後からは二年前から一人でアパートを借りて一人暮らしを始めた。それ以来、私は

大変嬉しく楽しく、幸せな毎日を過ごしている。それも全て私が習得して今教授している氣功尤氏長寿養生功のお蔭であると思っている。氣を養うと気血のめぐりが良くなって体温は上がり、健康で元気になる。私は毎日四輪自転車に乗って

買い物、炊事洗濯、家事一般を一人でこなして高齢者の独身生活を楽しんでいる。介護問題になる前にこの氣功尤氏長寿養生功を訓練して私と同じように

高齢者の幸せな老後を迎えていただきたい。

人生

人の一生は命が尽きるまでは、何が起こるか誰も分からない。浮き沈みがあって、人間万事塞翁が馬のことわざ通りである。運命は幼少時に何不自由無く

育っても晩年に尾羽うちからしてあばら家に住む者もいるし、幼少期は鉛筆一本買って貰えない者は大変な金を稼いで、

立派な豪華な家に住む者もいる。だから

人生は面白い。私は極貧無学の家に生まれてその家が嫌で学問と自由を求めて東京に飛び出した。ひょんなことでアメリカに行って、少ししたら、日本に帰るつもりが、四十三年もの間アメリカに

在住してしまった。その間さまざまなことを経験して、今、日本に戻ってきている。アメリカは私にとっては勉強する国、勉強させてもらえる国であった。

思えば、英語の本当に使える英会話、

さまざまな世界の国々へ行って、経験した国際性、アメリカ人の気質と中国人の

考え方と付き合う術、そして一番重要で、

私の人生に大きく影響を与えた尤氏長寿養生功の習得である。私の指導員たちは、みんなが私を慕ってくれて、大事に扱ってくれる。そして道場生もまた、

私に優しく接して、私の人生において、無くてはならない人間達である。私が彼らにできることはこの氣功教授しかない。綿々と続く氣とワザを、私が死にものぐるいで習得した全てを手渡して

私の役目を終えるのである。残す金など何もないが、私が持っているものと言えば私の心とこの氣功しかない。全財産である。しかし、何も惨めな気持ちはない。むしろ、サッパリしていて、感じる気持ちは広大でどこまでも続く宇宙の

広がりのようで、そして、誰とでも友人になれる氣がしている。昨日も道場として使っている施設の掃除のおばさんと

久しぶりに会って、昔からの知り合いのように挨拶してお互い気持ちの良い心地で別れた。顔に笑みが溢れて、私の脚のことを心配してくれる。この方も私の財産になっている。周りの人たちの全てを

このような関係にしたら、人生は

素晴らしいものとなるだろう。

人生はカネが全てではない。人間の気持ちを重んじて自分の周りの人たちと

仲良く、いつも言う共存共栄共生の哲学を持って接することが人生ではないかと

日本に帰国した今、毎日考えているので  ある。

 

自称武術家の人間性❷

武術家、武術団体を名乗ることには

長年の修行と資格が必要で、不可欠なものである。自分で勝手に名乗るのはバカかキチガイかよっぽどのウソつきである。

尤氏意拳の宗家創始総師範と名乗る姜吉隆はどれに当てはまるのであろう?

資格と修行が皆無であるのは自分でも

分かっているはずである。だから虚偽の事実でないストーリーをでっちあげるしかない。

アメリカに数年滞在して師母と過酷な

修行をしたと言う。真っ赤なウソだ。

私の家に観光ビザで一カ月私の家で一カ月滞在したが、アメリカには一カ月の滞在しか認められない。カリフォルニア州のキックボクシングのチャンピオンであったと言う。これも真っ赤以上のウソ八百である。そんな話は見た事も聞いた事もない。もし、そんな事があったら、ローカルの新聞記事になりテレビでも取り上げる。なぜ、こんな子供でも分かってしまうウソをつくのだろうか?バカだろう。

借金とウソついて巻き上げた供出金の返済もしないで逃げ回っている。キチガイだろう。バカでキチガイでウソつきならば、日本の社会では生きていけない。

社会のルールを守ることすら出来ない。

親戚のおじさんに勘当を言い渡されることも納得がいく。いとこを賃貸のアパートの保証人にして家賃を払わず迷惑かけて縁を切られる。あたり前の話である。

どんな自分が関わることでは自分はひとつも悪くない、自分には責任がない、と思っているのだろう。大人ではない反応しか出来ない。素晴らしく子供の武術家ではある。今だに自分の生徒から借金と前借りを繰り返すこの自称武術家は

神の武術尤氏意拳を名乗っている。

宗家創始の人間性

私が再三、奪ったカネを返済せよ、と言っているにもかかわらずに一切の連絡無く謝罪もない自称宗家創始総師範の神田真澄別名神田吉隆本名姜吉隆の人間性を紹介しよう。若い頃、浪人生であった時に知りあったのであるが、私が五百人ほどの道場生を持ち羽振りの良いのを見て、これは儲かると思ったのか医者になる夢を変節して私から援助を受けて短大の農学部に入り、卒業して有機肥料の会社に就職したまで良かったが、東京で道場開設の後、道場だけではやっていけなくなることまで想定して金を与えて整体師の資格まで取らせてやったが、患者を取ることは一回も無く、楽な生活の道として自称総師範の肩書きだけで通していたけども、経営が成り立たないとなるや

ウソと虚偽でカネを集め始めてついに

道場を閉めるに至った。その人間性

人の前に立ちたくて、立ちたくてしょうがない。師範と呼ばれたい。テレビに出たい。まるでオスの孔雀のように、

身を羽根で着飾り、その食料は毒ヘビである。オンナはモデルが大好きで、六本木界隈をオンナを連れて歩きたい。

クルマはドイツの高級車である。

こんなオトコが武術家で、宗家創始総師範と自分で名乗る。これでこんなオトコの下に付く者はどんな人間だろうか?

ナルシストの典型でカネとモデルのオンナが大好きという。全額一千五百万を超える返済すべきカネの始末をどうするのであろう?そして尤氏意拳などと実力の伴わない新武術を立ち上げて神様まで駆り出すこの無知厚顔の自称武術家の

ウソはこれからどのような展開をして行くのであろう。

師母の対応

尤氏長寿養生功の最大の道場生の目的は通氣になることであった。武術で言えば黒帯とでも言おうか。しかし、この通氣は単なる入り口で、そこからが修行の始まりである。通氣だけで終わりではない。私が通氣になったのは1992年であるから、二十五年が過ぎていることになる。師母は通氣になる前の道場生には

そっけないほど、見向きもしなかった。

私にも同じ態度で三年の間は一言の

会話も無かった。しかし、私が通氣になってからは、態度が一変して、私を勿体無いほど同等に扱うようになった。

通氣になることは氣が丹田に降りて、

丹田に降りた氣は上がって来なくなる、ということである。それだけではない。

通氣になる為には、相当な基礎訓練とジャンプを繰り返さなくてはならない。

私は着替えのシャツを五枚もバッグの中に入れて、瞑想の為の毛布も一緒にバッグに入れていた。修行の為の必需品であった。ゲップ、おなら、汗などの排出物を出せるだけ出して、身体を浄化することが目的である。今になって、私は

何故通氣になっていない人間には話しもせずに会話もしなかった事を理解した。

完全に浄化されている自分の浄化された氣を汚さない為である。仏教では修行を積んで大阿闍梨の称号を持つ修行僧がいるが、そんな荒行を積んだお坊さんが

一般人と付き合うことはないだろう。

会話もしないはずである。そんなものだろうと感じている。何も私が大阿闍梨であるとは言ってはいない。大阿闍梨の山を歩くスピードは人間技ではない、という。修行の途中で死の危険性もあるほどの山中での修行なのだ。私は大阿闍梨の修行経験はないが、瞑想とジャンプの繰り返しの中でひょっとして私は死んでしまうのではないか?と思ったことがある。それほどの過酷な修練であった。

他の同輩や先輩は通氣になってすぐ辞めてしまう者もいたが、私は日本から妻と共に一緒にアメリカに戻り、修練を続けた。しかも、以前と同じく一日二回、

三百六十五日である。当時私は五十歳の

年齢であったが、不思議と疲労や倦怠感は無かった。毎日が楽しく、真剣で、

妻と一緒に師母に付き添うように毎日

ジャンプして瞑想を続けた。ジャンプと瞑想は一日の日課となって、我々の生活には無くてはならない生き甲斐となった。師母はとても喜び、私は道場の

筆頭格となった。妻も痩せた身体は

一回りもふた回りも大きくなっていた。

この時師母は我々には特別な信頼を寄せていた。仲間、同士となっていたのであった。そんな中歳老いた師母は優に百歳を超えて老衰の為、入院下血が続き、

他界された。葬儀には近在の道場生が集まり、厳かに行われた。私は恥ずかしいほど涙が流れて止まらない。私が任命した人物には師母の死を伝えはしなかった。どんなことも自分の都合で自分を格上げに利用するオトコであるので、

妻と相談して伝え無かった。信用出来る人間には思えなかった。伝えても、身銭を切って駆けつけるオトコでもない。私の家には泊められない関係になっていたのであった。日本では道場生にカネの無心で道場生を苦しめて、私の名を語って

返済意思のない借金を重ねていたのであったからである。

サバイバル

人生に何の保証無く、十八、九で単身東京の大学に行った私は、授業料と生活費の両方を何とか自分で工面するしか方法は無い。アルバイトの良いものは、東京出身の学生と裕福などこかのキリスト教会の牧師の息子達に先に取られて、割りの悪い遠方のアルバイトばかりが残り、そんなことでもするしかない大学時代ではあった。アメリカに行った後も同じで、下層の職で足りない生活費を稼ぐしか無かったのであるが、武道の教授料だけではもちろん足りない。違法なことには手をつけ無かった。武道の哲学を

心から信じたからである。日本人の誇りを捨てることは出来ない。今でも

 Survive  している状態ではあるが、

昔の自分に比べて精神は落ち着き、

あくせく働く必要も無い。リタイアしたのであたりまえであるが、アメリカから

少ない金額ではあるが、年金をもらって、氣功教授の謝礼にプラスして

大変助かっている。私の半生はサバイバルの人生であった。いつ死んでもおかしくなかったけども、持ち前の根性を発揮して歯をくいしばって生きて来た。こんな生き方に慣れて来ると普通の人間ならば諦めてしまうところでは決して諦めない。絶対絶命の場面もあたりまえで乗り越えて次の場面ではずっと状態が良くなっている。現在もサバイバルは続いている。