包囲網

尤氏意拳を取り囲むように少しずつ確かに嘘っぱちの武術団体尤氏意拳の包囲網が完成されつつある。放って置いても、自然に崩壊することなど分かってはいるが、自主的な解散と肝腎なカネの返済を促す為にも完璧な包囲網を構築せねばならない。この破廉恥で誠実のカケラも無い人間のカネヅルを断ち切り、法の網をかいくぐる自分を策士と思っている者が

策に溺れるのを見届けたい。

目には目を、法には法を、ハナクソ勁空勁にはホンモノ勁空勁を、だ。これで、私の何をマネしようとしても、もう追いつけない。私はタヒチにもうすぐ移住するが、追及の手を緩める訳ではない。東京と大阪にも太田氣功道場の分校が出来て、学生が集まり、支部に昇格する。尤氏意拳はポシャるばかりだ。そもそもウソが簡単に罷り通る世の中などはない。ウソと虚偽で固められた武術団体など存在する理由などもない。私が三年かけて築いた包囲網が尤氏意拳を追い詰めた後は新規の生徒はもう集まらない。来週弁護士に会って最期のトドメを刺す手段を相談する。包囲網は確実に尤氏意拳の神田真澄こと姜吉隆の首を絞め上げるのだ。善は栄えて悪は滅ぶ。

 

 

 

心身革命

言うまでもないことだが、身体を変えないと身体の中身である心、精神を変えることは出来ない。私が習得した尤氏長寿養生功の根幹を成す修行の大半はもう承知のように瞑想であった。つまり、意拳の意の部分である意念を徹底的に鍛えることであった。立っては瞑想、座って瞑想、筋力の鍛錬はブッ倒れるまで筋力を鍛える。動けなくなるまでやる。瞑想する時にはもうこれ以上静かになれないところまで静かになる。明鏡止水の境地である。微動だにしない。自分の心臓の音が聞こえるような静けさを経験する。

動と静の極を経験する。これは私の経験から導かれた私見であるが、氣のエネルギーの量は動と静の差が大きくなると氣のエネルギーが比例して大きくなる。動と静のエネルギーの差で、氣の量が決定する。つまり、動けなくなるまで運動して、それ以上静かに出来ないところまで全く動きのない静けさを経験する。静寂と躍動の差が、プラスとマイナスの電気のように氣を生むのであると私は長年の修行の間の観察と実験で確信を得ている。実験と観察を繰り返すこの氣功の修行はまさに科学である。身体革命と精神革命の両方を一度に成す尤氏長寿養生功は心身革命の手段となる。

 

 

 

 

ゴネ得

私が予想していた北朝鮮のへ理屈とゴネを駆使したいわゆるゴネ得が始まっている。何かと難癖つけて得しようとする手法だ。北朝鮮以外にも同じゴネ得しようとしぶとく頑張る者がいる。スポーツの世界でルールを守らないタックルをかまして相手をケガさせる為にそんな汚ないことをする。例え、監督が命令しても

断る正義感はないのであろうか?

謝罪もないと言う。謝罪と言えば、尤氏意拳通名田吉隆本名姜吉隆はカネの不祥事を起こして未だに謝罪もない。

武術を指導している者が、他人に迷惑行為を行なったならば、まず謝罪して然るべきだろう。奪ったカネの返済も返還するように要求した私にも何の連絡もない。あれほど私を真似した者はこのたびタヒチで私のチカラを認められて招待されることになったように、また真似してみたらどうだろうと思う。もちろんそれだけのチカラがあったらの話である。それでなくば、北朝鮮に住んで、得意の話術で金正恩の息子に取り立ててもらったら、贅沢三昧にモデルのようなオンナが手に入れられる。ドイツの高級車も自由自在だ。私はタヒチで尤氏長寿養生功を広めて姜吉隆は北朝鮮で尤氏意拳を広める。姜吉隆に似合う北朝鮮に行くのならば

私はこれ以上追及をしない。もっとも

スパイ容疑で処刑される可能性もあるが。、、、

日本人にはゴネ得の手法は通じない。金正恩と姜吉隆は知るべきである。金正恩は私個人では何とも出来ないが、私がいる限り、姜吉隆はゴネ得も逃げ切れることも出来ない。地獄の果てまで追いかけてやる。

 

 

 

挑戦

人は人生において、誰しも何か挑戦するものを見つけて挑戦するであろう。

挑戦することによって、自分の人生をより豊かにする為に挑戦するのではないか?困難であればあるほど、克服した時にはより大きな達成感を感じる。人生を生きる醍醐味である。また僭越であるが、私の場合を述べれば、私が尤氏長寿養生功を選び修得したことは私にとっては、大きな、大きな困難を伴う挑戦であった。私一人が日本人で中国語も理解出来ない中で孤軍奮闘の毎日で、同輩と先輩道場生からのイジメにあいながらも、

歯を食いしばってみんなの練習を盗み見てこれは良くない、これは良いと取捨選択を繰り返してついにトップに躍り出た。三十年間のマラソンのようなものであった。今妻亡き後、日本に帰国して後に三年経って、  タヒチの人々に私の氣のチカラを認められて、タヒチに移住することが決まっている。思えば、挑戦は続き終わってはいない。何か行動を起こす前に準備をするであろう。私の尤氏長寿養生功の習得はタヒチに招待される前の準備段階であったと思われる。日本を飛び出して世界に飛躍せよとの神の啓示にも取れる。私はこのチャンスを逃しはしない。日本に居た三年の間に全国の都市に展開出来る基礎の種も蒔いた。次はタヒチ全島に展開する予定と計画も立てている。同時に、日本、アメリカ、ヨーロッパに拡大展開する気構えである。

タヒチの夜は真っ暗だ。太陽光は一日中サンサンとあってソーラー発電には持って来いである。日本の技術力を紹介してタヒチの社会を変革する。社会の変革とタヒチアンの心身の変革を目指す。考えるだけで、心がワクワクして少年のような希望と冒険心が心の底から湧いてくる。未知への挑戦は私の人生をより豊かに、ますます豊かにしている。私には理想の家族、社会、国、そして武術は存在していなかったが、この歳になって、

理想の武術と健康長寿の社会とエミッションフリーの国を創生する機会は与えられた。この挑戦は現実になると私は確信している。挑戦は死ぬまで続けられる。

 

 

氣とマナ

氣の概念はタヒチにもあった。マナと呼ぶ。タヒチアンのご先祖様はアジア人でラピタ人と呼ばれる南アジア人の人種らしい。それに台湾の部族の血が混じっている。そのせいで万物にエネルギーがあって全てを支配するとの哲学を先祖代々持っていた。今ではタヒチはフランスの植民地政策によって伝統的なものは禁止されてカトリック教徒になっている。

すでに私は私の弟子にタヒチの伝統的

哲学の根幹マナを復活させようと言って、賛同を得ている。どんな社会も白人の価値観を押し付けられて伝統的文化を失いたくはないだろう。伝統的文化をお互い尊重しあって、共生する生き方が

昔も今も必要とされている。

私の弟子は宝もの

中国武術に於いては、弟子になることは難しい。私が師母の弟子であったとは思えないが私には今、私にとって、宝ものと思われる弟子が日本とタヒチとアメリカにいる。私を公私にわたり助けてくれるからである。すでにタヒチには二人いて、彼らはもう私の意を汲んでタヒチの全島に尤氏長寿養生功を拡めることを

計画してくれている。一人は中国系タヒチアンで、新聞記者をしているので、広報担当をしてもらっている。もう一人は現地のポリネシア人で、タヒチ社会の

重鎮に知り合いがいて繋がりを保ち、Pavlic relation を任せている。人材適所で個人の経験と能力を発揮してくれている。大変ありがたいことであり、彼らがいなければ、先回のデモンストレーションと治療、市長さんとの折衝もありえなかった。日本にも今のところ、二人いて、この二人がいなければ、日本での氣功教授は不可能である。氣功学校を卒業した者もいる。地方に散らばり、これより千葉、大阪、山形、北海道でも分校や支部タヒチと同時進行で拡大する。

私が私の弟子と思う道場生はまさに私の宝ものなのだ。私を裏切って、のっとりを企んだ者は自分で自分を私の唯一の弟子と言ってはいたが、私はこの者を弟子と思ったことなどはない。師匠とカネオンナクルマを天秤にかけてカネオンナクルマを選ぶクズのような人間は弟子にはなれるはずはない。私の宝もの、弟子はこれより先、ドンドン増えていく。日本全国、世界各国に拡がっていくのである。信頼関係で結ばれた弟子は私の大切な宝ものなのだ。

人間の叡智とワザ

人類誕生以来、人類、人間はさまざまな経験と苦難を乗り越えて知識を蓄えて

革命的なワザを開発して来た。武術の

神技と言われる領域のワザや叡智もその一つである。特に尤氏長寿養生功の妙技の勁空勁は相手に触れること無く、投げ飛ばしたり、コントロールする修得するにとても長い年月がかかるものである。

その修得の手段は瞑想であって、東洋の究極の叡智と言えるものなのだ。この

叡智とワザはどうしても後世に伝え残すべき東洋人であればその責任を自覚するべきものなのである。その自覚と責任と誇りは私に受け継がれ、私が今後世に

タヒチに伝えようとしている。それだけにとどまらずにフランスに、アメリカに

ヨーロッパへと発展拡大を目指してあと二年ほどでタヒチに出発する。人間の叡智とワザは永遠に語り継がれて人類に

貢献する。