金の指輪と写真

私が師母との最後の練習を終えて翌日には日本へ帰国しようとしたその時に、私が金の指輪と師母の若い頃の写真を頂いたことは以前のブログにも書いていたのであるが、大事なことであるので再度このことについて触れようと思う。師母が教えて良いとか、指輪と写真を渡したとかいう話は、私は聴いたことが無い。何故か私にだけ指輪と写真は渡されたのであった。その前から、しょっちゅう、

お前日本に帰ったら、尤氏を教えるようになるだろう。お前が教える時には、誰から習ったのか、師匠筋を明らかにして私とドクター尤の名前を出せ!と何度も何度も言うのであった。今になって、私が尤氏を教える立場になって、師母の言った言葉の意味を理解した。恥も実力も誠意の無い者たちは、私から習いながら、私から習ったとは言いたく無いようである。私が誰にでも出来る勁空勁の初歩中の初歩のワザを出来るようになると、自分が編み出したとか、古神道のチカラを借りて和の氣の武術を創立した、とか、瞑想を中国拳法から習った、と突然言い始める。とんでもないウソである。師母は、こんな痴れ者を、生涯何人見て来たことだろう?次から次へとこのような恥の無い愚かな者たちが現われる。師に尤氏教授の許可とその証を手渡されることは大事なことである。私のホームページにドクター尤と師母の若い頃の写真が掲載されているのは、私がその系列を受け継いでいる証拠となるものである。他にも尤氏を名乗っている者には、受け継いでいる証拠などを持っているはずがない。ただ師母と私の写真をホームページに掲載しているだけである。何も意味のあることではない。ワザの勁空勁にしても、私の真似と受け売りで、オレも同じことができる、と言いたいだけなのである。

大家の顔色

大家の顔色と言っても、私が私の大家の顔色を伺っているという話では無い。会いたくはなかったが道でバッタリ出会ってしまった。顔を見ると、顔色は赤黒くあ、肝臓腎臓が相当悪いんだな、とすぐに判断できたのである。東洋医学では五行陰陽説に従い、内臓と色は関係する。例えば西洋医学的にも胆嚢と消化器系統に異常があると皮膚の色が黄色になり、腎臓が悪くなると黒くなって、肺に問題あると白っぽくなる。私の大家は怒りっぽく、認知症で異常な行動をとるとか近所の人が言っている。これで謎が解けたのである。肝臓や腎臓に問題あって、内臓に調和が無くて脳細胞にも影響を及ぼし、認知症になって肝臓が悪く怒りを制御出来ない。肝機能が低下して毒素を排出できず、顔色が真っ黒になっている。認知症と言っても、カネの話は忘れない。出て行くのはいつでも良いが、家賃だけは払うように、と念を押す。呆れた大家だ。といくら病気とは言え、氣の触れた人間とは会話が出来ないと思い、ハイ、と言ってその場を離れた。不思議なことにこの大家の孫たちが、私にとてもなついて毎日遊びに来る。大家は怒りっぽく意地が悪いが、孫たちは天使のように良い子たちなのである。トンビが鷹を産んだか?と思う私であった。

近視

近視も東洋医学の治療の範囲内である。完治には至らないがかなりの改善は出来る。目の回りのツボに鍼をすると近視が改善し始めるのだが、面白いことに太田式氣功整体でも同じくらいに改善できる。さらに興味深いことに、簡単な体操で近視がその場で改善され、目ボヤけていたのが良くなってハッキリ見えるようになる。アメリカで私が中医学を習った大学で同級生にこの整体で視力がいっぺんに良くなった同級生は、大変に驚いていた。その時には私は氣について何も知らなくてもそれだけの効果があった。今では氣を患者と繋いで治療するからさらに効果が増しているはずである。鍼に加えて太田式氣功整体も使って治療すれば、治療が成功することは間違いないと私は自信を持っている。アメリカの私のクリニックに若い日本人の学生が来て治療を受けていたが、勉強のし過ぎで目が悪くなって近視であったので目の回りのツボを教えて二人の姉妹に説明して家でも毎日指で押すと良くなると言って三ヶ月ほど経って再来院したので顔を見て驚いたことに、二人共目の回りにはアザが出来てパンダのような顔になっていたので鏡を見てもらったら、みんなで大笑いをした。顔はパンダになったが、近視は改善されていた。メガネをかけるほどには良くならないが、日常生活には困らぬくらいには改善する。

思いやりと助け合い

アフリカに人類の祖先が誕生して人類が進化する前の脳は、今と比べればずっと小さく本能で食物を求めて大型肉食獣の餌食になる場合も多かったのであるが、肉を食べるようになった頃から集団の助け合いが必要になり、思いやりの心が生まれるようになった。人間特有の思いやりと助け合いの心が生まれる。ところが、最近の世界の兆候は分断、憎しみ、自国第一主義、の為に人間特有の心が失われたようである。尤氏長寿養生功を弘める太田氣功道場に現れた人間の心を持たない者たちは、自分の思い通りにならぬ時には裏切り、背信、別派活動で平和と秩序を守る道場を分断して破壊しようとさまざまな攻勢を仕掛けてくる。世界が憎しみから戦争になろうとして、混乱と不確実性に満ちている今を我々はどう生きれば良いのだろうか?以前の原始的な集団の中の助け合いと思いやりの人間特有な心を取り戻さねばならないのではないか?心を変える為には瞑想が必要である。朝晩2回の規則的な瞑想は人間特有の優しさ、理性、思いやりなどの心を与えてくれる。人を殺してでも自国第一主義を貫こうとする者、知的財産である瞑想法やワザを盗んで自分だけで開発したとウソをつく者たちとの差はほとんど無い。似たような人間である。原始的な本能に生きる脳に退化していると言えるだろう。本能で生きる者たちが思いやりと助け合いの心が無いのは当然だが、何故に瞑想を学ぼうとしたのであろうか?本能的に尤氏長寿養生功を学んだ者たちは、カネと売名、自己満足に都合良く尤氏長寿養生功が見えたのであるとしか私には思われない。

心と天国

死後に天国に行くか地獄に行くかは、現世に於ける心のありようそのままの心が反映するものである、と私は習ったのであるが、現世に於いても、同様に心のありようが幸不幸を決めるのであると私は思う。カネとモノをたくさん持つことが幸せだと思って尤氏長寿養生功のワザと瞑想を盗み取って勝手に道場を開けた者たちが幸せであるとは私には思えない。許しも無いのに盗みを働き、許可も無く、実力を認められもせずに道場を開けることがどんな心のありようであるかは小中学生でも明白だろう。師母は、長いあいだの瞑想の後に我々道場生にも誰にも歯に絹着せぬものの言い方で本質を貫く発言をするので、嫌われることもあったが、私は逆にそんなストレートに言ってくれる師母の性格が心地良かった。そんな師母におべっかや甘えるような仕草で師母のご機嫌を取ろうとする者も実際にはいたのである。百歳の年月を生きた師母にはそんなことなど通じるはずも無い。瞑想で澄み切った師母の心には心と,百パーセントの真摯な姿勢の訓練で相対せねば、答えてくれない。中途半端な心、中途半端な訓練では鼻にもかけてくれない。私は誠心誠意、野心の無い心と訓練の後に毎回、ぶっ倒れるほどに体力限界ギリギリまでジャンプ震脚と站椿功に精を出した。師母は私の態度を認めて私に特別に多くを教え、尤氏教授の許可も与えてくれたのであると、今になって思えば、私の心が師母の心に届きそこにある種の共有された融通無碍の天国のような空間が出来上がっていたのでは無かろうか?先日も私が四年間、探し続けた私の友人夫妻とついにテレビ電話で繋がり、旧交を温めたのであった。何も言わずとも、心が通じ合い、その場でも天国のような雰囲気のある空間であった。カネとモノが必要で無い空間で、まさしく天国である。尤氏長寿養生功を弘めるうちにさまざまな出会いがあり、縁のある人が良縁となって、天国の空間を体感する私はますます心を磨いて、人生を天国に近づけてもっと楽しく嬉しい幸せなものにしたいと願っている。豊かな心が幸せを得る手段である。カネやモノではないはずだ。余りあるカネとモノがあるからといっても幸せになるとは限らない。幸せで豊かな人生は心の豊かな者に訪れる。馬の耳に念仏ならぬロバの耳に念仏となってしまう人間もいる。

Force

晦日Star Wars を観に行った。

Forceと言われるエネルギーで物体を動かしたりする勧善懲悪の宇宙戦争の映画であるのは知っているだろう。最初の頃にはヨダという瞑想の師匠からForceを習うシーンがあったのであるが、身体の小さなヨダは私の師匠、師母を思い出させる。空勁は英語ではEmpty Force と言われる。尤氏の英文版の本でも空勁をEmptyForceとして紹介している。100  年前の意拳の殺人拳から尤氏長寿養生功の活人拳に変わり、私が日本で教えることはもっと医療に傾き太田式氣功整体を中核にして鍼灸や整体の分野に尤氏長寿養生功を浸透させようとしているのであるが、100年前とは様変わりしている。あと100年、1、000  年経ったら空勁はこのStar Wars のようなForceになるかも知れないとの印象を受けたのである。日本と世界へと伝わる尤氏の勁空勁は人の身体を癒す為のものであり、映画のEmpty Force も傷にForceを当てている場面があった。空勁の未来はForce と呼ばれる存在となって宇宙空間では物体をも動かしコントロールするものになって人の身体もこのEmpty Forceで治療することになるのではないだろうか?

哀れで気の毒な者たち

私の太田氣功道場からコソコソと抜け出て自分の道場を開いた者たちに対して私は怒りを当初持っていたが、今は怒りは消え去り、前を向いて太田式氣功整体を中核にして日本全国と世界へと展開中である。思うに、この者たちは、自分の生活と人生に自信と誇りを持つことが出来ずに私の持つ尤氏長寿養生功のワザや基礎訓練と瞑想法を盗み取るしか生きる術の無い、哀れで気の毒な人間たちであるだけであった。自分に劣等感があり、穴だらけの自分の実力をウソと見栄で埋めて隠すしか無かった。今までに私はこういう哀れで気の毒な人間たちを数多く見て来た。哀れで気の毒な人間であるからといっても、私は同情しているわけではない。因果応報の法則に従って、悪因悪果の裁きは受けねばならない。私から欲しいものが得られないと分かるとケツをまくる人間たちなのである。初めから尤氏長寿養生功を習う資格の無い人間たちであった。哀れで気の毒な人間たちには誰も同情や共感する者はいない。また、彼らの人生が、彼らの老後が楽しく嬉しい、幸せなものになるとは到底思えない。