秘密の秘技

今週のお題「カラオケの十八番」最近、あのニセ団体を率いる神田吉隆秘技と言っていた動画をもう見ることが出来なくなったとの報告を聞いた。奴の許可が無ければ見られなくなったと言うのである。この報告を聞いた時、この動画を私に見られてサル真似と女の子のジャンプと批判されて、これはマズイと思って隠してしまったのだなと、すぐに思った。世間に オレは太田と同じことができる、オレも出来るんだぞ、と武術界と世間に認められたいとの、またアホな競争心がムクムクと湧き上がって来たか?世間に認められたくば、私が師母に認められたように私に認められないといけない。もっとも、私の道場生から借金して返済せずに逃げ回り、有りもしない師母との苛酷な訓練をしたと標榜して尤氏意拳を創設したと言ってる者を私が認めることなどこの神田吉隆が生きている間、そして死んでも、有り得ないが、、、。奴が苛酷な訓練を師母と何年もしたと言うならば師母から認められてしかるべきだ。この神田吉隆の意拳としての技倆、とましてや尤氏の氣功の実力など、私との訓練もそこそこに、バレバレのニセ団体を立ち上げる。しかもドクター尤の名前まで付ける前代未聞の仕業をした限り、そんな人間をどのようにして認めれば良いのだろうか?武術家武道家の前に人間として認められない。秘技だから隠したと言えば通じると思ってるのだろうか?月謝を取って、真に尤氏意拳と言うならば、真に空勁を操る姿を見せてもらいたい。尤氏意拳と言うなら空勁を使ってしかるべきだ。私が納得出来る技倆を見せてもらいたい。何故隠すのか理由を述べよ!!!

站椿功は根性養成ではない

今週のお題「カラオケの十八番」站椿の話を既にしたのでもう少し掘り下げて見たい。以前武術関係者が書いていたものを読んで驚いたことがある。站椿は根性で立つ。根性を養う為にやる。と言うことであった。私が習った尤氏長寿養生功はそんな一次元的な根性論ではなかった。氣を養成する手段として中国の武術家の先人がついに辿りついた究極の修行法なのである。私の先輩で中国人武術家がいて、自分で一派を立てようとしてある日会合を開き賛同者を集めようとしていたので、どんなだろうと私も出席していた。到着するなり、今日は站椿を六時間もやっていた。と自慢話を始めた。中国人にはよくあるタイプで、またやってるなあと思ったものだった。ドクター尤はこんな時は、バーカ、站椿は六時間もやるものではない、せいぜい一時間で脳に最大の良い影響を与える時間と言うものがあって、それを教えたではないか。誰が六時間も立てといったのか?ともしドクター尤がその場にいらっしゃったなら、そのように言ったに違いない。と私は思う。ドクター尤がサンフランシスコに来てこの長寿養生功を教え始めた時は道場生の誰も何が何だか分からなかったと私は聞いている。この中国人武術家は集まってきた者を自分が一番だと言いたくて印象づけようとした行為だったのだ。そんな者たちは中国人に限らず、日本にもいるものだ。私のやっていることを真似て、同じ似たような事をホームページに掲載する。チカラが無いから氣も無いから、焦って、見よう見真似で一生懸命だ。私が見れば真のチカラと氣を使っていない事は一目瞭然だ。見るからに卑しく、あさましい。この先輩中国人武術家にも同じ嫌悪感を覚えたものだった。恥ずかしくは無いのだろうか?恥や外聞は武術家が一番に氣にするものではなかったか?情け無いことと思う。站椿に戻るが、私の経験では決して根性を養うものではなく、氣を養うもので、どのようにして一時間もの間立ち続けることができるのか?秘訣と秘密がある。自分の脳の状態を変えてしまうのだ。前にも言ったが苦しい姿勢も変性意識状態になると何とも無くなってしまう。私の修行のピーク時は膝を曲げて大腿四頭筋は床と平行になって、一時間経っても平気であった。自慢しているのではない。経験したことを伝えているのだ。そのような修行があって、今日本に戻り、教えていることができるのである。今の私が教えている道場生は私が経験したことと同じことをまた経験してその段階を上げていくのである。継承とはそういうことではないか?自慢して有りもしないことを作り上げて、自分を神格化して人集めをして一儲けなど企めば詐欺となる。人のやることを真似て二番煎じ、三番煎じをすれば、猿まね武術家と蔑まれる事になる。心すべきことと思う。ウソ偽りのない人生を歩めば楽しく、幸せだ。自慢してサル真似しては幸せになれる筈は無い。不良のエネルギーだから人生も不良となる。カネも集まらない。不満ばかりの人生となる。

EPISTEMOLOGY

今週のお題「カラオケの十八番」 私が日本で大学に通っていた時にフランス語の先生の講義を受けた時の印象が強く残っていて、未だにその内容を覚えている。哲学の Epistemology  の講義であった。その内容はどんな分野の学問であれ、深く、深く、掘り下げて地下の水脈に到達すると水質、水脈は同質であって、同じ水を得られるということである。今の私がそれを解釈すると、全く関係の無い分野あっても深く掘り下げると「真理」に到達する。同じ哲学的内容を共有出来ると理解出来るようになった。三十年間も氣を追求、研究して一流、超一流の科学者やその道の覚者とお話しさせていただく度にその思いを強くしている。綜合格闘家元世界チャンピオン、小笠原流弓道師範、ノーベル賞を狙う天文物理学者、全く違う分野であっても、一人一人の方の見識、物の見方、考え方が同じで、皆さんはジェントルマンであった。お話しした後の私の胸に残る爽やかさは今でも忘れられない。ところが、二流、三流の武術家、武道家そして科学者は話のあちこちにトゲがあり、競う心が見え隠れして、話しの途中で、話しの後で嫌な感情が残り私をイラつかせたものだった。おそらく、トコトンまで自分を追い込む修練もせずに科学者も研究もロクにせず、修行研究の目的がカネ勘定や我欲にまみれたものにすり替わってしまったのである。そんな者たちとは氣の交流も出来ぬまま、私の記憶から消えてしまった者たちであった。何か心身ともに氣が滞っていて、それが解決されていなかったのであろう。極度の緊張、猜疑心、硬さ、人前で氣で操られることへの恐怖心、操られた事を負けたと思う競争心など、私にしてみれば、人生の中でたった一度の氣の体感が出来るチャンスと思えば、いっときの羞恥心など取るに足らないものだと思うのだが。リラックスしているつもりでも極度に緊張する者もいる。人生で生まれて初めて、氣の交流で氣の体感をした方々はそれまでの世界観を一変させられて物事を全く違う角度で見ることができるようになって、自己の本来持っている能力に気づき、その能力を見事に開花させた人達もたくさんいる。またこの氣を無益な闘争の手段にしようとした者、立身出世の道具とした者もいる。宇宙のエネルギーでもある物を私利私欲に利用した者の結末はどのようなことになるか?一時的な結果だけに満足してしめしめと思っても、その後の人生が幸せになれるとは限らない。因果応報の結末が待っているだけである。氣は神のエネルギーでもあるから破壊、虚偽の方向性に向かえば自分の破滅に向かい、神の生成化育の方向性に向かえば良性のエネルギーを受けて自分の人生は好転していくのだ。全て自分の中の良心や判断に任せられているのである。嘘や虚偽は自己の破滅につながることは目に見えている。

桜の花とドングリ

今週のお題「卒業」春春はもうすぐだ。桜の花を見てきれいでは無いと思うものはいないだろう。ドングリが落ちて芽吹き可愛くないと思う者もいない。自然の花や芽吹きはその前の冬の厳しい寒さが必要で、冬眠している桜の花のつぼみが覚醒するにはうんと厳しい寒さが必要である。ドングリが芽吹きをするにも厳しい寒さが必要で、厳しい寒さでドングリの中の成分がデンプンに変わり芽吹きの為のエネルギーとなるのである。何か事を為すには苛酷な試練が必要であることを象徴しているのである。私はこの類い稀な氣功を今、日本で拡める前に苛酷な、ホントに苛酷な訓練を通して今の私のチカラがある。春を謳歌する前に厳しい冬の寒さは不可欠で、人生にも同じ事が言える。今、私は人生の中で一番の春を迎えている。何を見ても、何をしても、嬉しく楽しい、幸せなのだ。厳しい訓練を避けて、果実のみを食らおうとした者は私と同じような心でいるであろうか?否である。断言して言える。否である。人生の中で美しい花や芽吹きを迎えようとすれば何年もの準備をせねばならない。私は老齢を迎えて春を謳歌して人生を楽しんでいる。このように年齢は関係無く、いつでも人生の春を迎える事が出来ることを知った私は、これからも幾多の試練を通ることを恐れない。平常心でジッと自分を見つめる自信がある。この氣功の妙味を知るには苛酷で厳しい修行が必要であると今日の講習会に参加者への講話がこの話であった。私がこの幸せを長く保つ為には、更に一層の訓練修行が必要である。人生死ぬまで修行とはこのことを言うのではあるまいか?面倒くさいだろうか?ずっと嬉しく楽しくて幸せなのだから、何が大変で面倒くさいことであろう。瞑想は私にチカラと幸せを与えてくれるから寝る間もなく一晩中瞑想しても惜しくはない。講習会の度に新しい道場生が増えて新しい私の家族が増えることは今、私の大いな喜びとなっている。嬉しくて、楽しくて幸せなことである。

私の髪の毛

今週のお題「卒業」

私の身体はドンドン変わって来ている。この一年ほど、歯科金属が体内に溜まると身体に悪さをすると言われて歯科金属を取り除こうとしている。金属を体外に排出する薬を取り始めて一年ほど経つが私の髪の毛は黒くなり始めて白髪はメッキリと少なくなっている。何年か前に出会った呼吸法の男は私の髪の毛を見てバカにした態度で自分の髪の毛が氣を訓練し始めてから黒くなったと自慢していたが氣功を訓練し始めるとさまざまな分野にその効果が出始める。髪の毛はそのほんの一つで、私の身体は髪の毛以外にも変化をしている。死ぬような病気も二度ほど経験して今に至っているし、一度の病気、二度目の病気も I C U から生きて出て来ている。特に一度目は病院の ICU では他の患者は全員亡くなって、生きて出て来れたのは私だけであった。人生は長い。その呼吸法の男はその当時、元気であったが、今現在はどうなっているかはわからない。ひょっとして病気しているかも知れないし髪の毛が真っ白になっているかも知れない。氣功の妙味は髪の毛のような見た目では無く、崖っプチに立たされた時に分かるのだ。決して髪の毛の黒さだけに止まらない。さまざまな方面に氣功の力は及ぼすのだ。であるからこれから歳を経るごとにどんなことに変化していくのか楽しみでならない。

人生の中の悪縁の者達

今週のお題「何して遊んだ?」私の武術の縁を通して知り合った人物はいろいろいるが、立派な人物もたくさんいたが、思い出したくも無い輩達とも関わりがあった。所謂、悪縁と言うやつだ。こちらから知り合いたくて知り合った訳ではない。私の不徳の致すところか、本来ならば、私の人生に入り込んで来れるような者達では無く、通りすがりの、誰も認めぬ自称似非の職業を標榜しているが、その実は、内面、心は、カネに飢えたオオカミだった。こと自分の権益、カネのことになると、いっぺんに態度があさましいほど豹変する。己れ自身で招いた問題や出来事結果を私になすりつけて、自分は一つも悪いこと無く、自分だけが正しいと主張する。怖ろしい人間だ。とてもじゃないが、理性をベースに話は出来ない。バカげた程に感情的で、まるで女の腐ったような輩達であった。こんなことを言ったら世の女性に大変失礼ではあるが、事実なのだ。このような輩は変に自分に自信があって、こと自分の武術的力量にはいっぱしの武術武道家を気取り、それを一方的に信じている。とにかくカネに絡む事になるとカネ儲けの邪魔になった私を恨んで、憎んで、嫉妬して、私を悪人扱いにする。人間性開発の目標とする武術武道の理想とは全く真逆の人間達だ。もちろん、数は少ないが、あまりにひどい人間性に別な意味で印象的だ。それだけのカネへの執念のエネルギーをこの氣功習得に使えば、今より確実に収入の道はあった筈だ。嘘をついて実体と内容の無い事を世間に公表して、その事が朽ち果てていくのをジッと指をくわえて待っているだけの人生だ。一体何を目的にこの氣功に接触して来たのか?答えはひとつしか無い。こんな輩達は楽してカネを手に入れたかっただけなのである。私は私の時間とお金をかけて助けたのであったが、一つとしてまともに実を結ぶ事は無かった。まともに働こうと言う心と努力は無かったのだ。今だにこんな輩と関わらないといけない自分が情け無い。最近、縁は切れたようなのでサバサバしている事は事実だが、いったん、悪縁をもって知り合った者達と手を切ることは時間がかかり、難しくて、面倒くさい。現代に於いては良縁では知り合え無くなっているのであろうか。それも自分の中のエネルギーが呼ぶのである。自分の不徳の氣がそんな輩を呼び込むらしい。大いに気をつけて生きねばならない。

goodness( 善良) と(邪悪)

今回は宇宙の拡大のエネルギーである

暗黒エネルギー、暗黒物質と我々の心の

エネルギーについて述べてみたい。

私が知り合ってキチガイに刃物を与えてしまった精神年齢幼稚園児は今思えば

善良な道場生を騙し、自己の我欲の為にカネを巻き上げて、借金ですら一円の返済も未だになく私の警告に対して何ら反応も無かった。この行為は私の人生経験では邪悪、 evil と言え流。ことば巧みに使いカネが必要だとの催促に何とかしようとした道場生は善良と言える。宇宙の拡大のエネルギー、暗黒エネルギー、暗黒物質は科学者がいくら努力しても見ることは出来ないが、存在するのは分かっている。氣も同じで、見えることはないが存在するのは分かっている。邪悪な人間が善良な人間を騙し利用すればその結果、宇宙のエネルギーと氣は直結しているから、そして宇宙エネルギーは再生と拡大、星を破壊する両方のチカラを持っている。氣を使う者が利己的に我欲の追求を目的にその氣を使えば邪悪破壊のエネルギーと感応して、いずれ破壊のエネルギーになってしまう。善良な道場生は再生と拡大のエネルギーとなり、人生は good になる。病んでいる者への同情や困っている者への支援は必要無いと言う者もいるだろうが  心が純で時には損と分かっていても助けようとする心はいずれは宇宙のエネルギーと感応して  百倍千倍のエネルギーになって善良な者へ戻ってくるのだ。勿論その事を期待してする善良な行為は我欲であるから、その結果を期待して道場に通う道場生の結果は言わずともわかるであろう。師母は邪悪な者は大嫌いであった。私が通氣になる前に先輩道場生に私の事を細かく聞き回っていたそうだ。私は神田吉隆にこの氣功の全てを教えた訳ではない。この神田吉隆が自分で勝手に自己申告していたのだ。これは善良な行為であるか邪悪な行為であろうか。神田吉隆がどの様な結末を迎えるか?いずれ時間が決める事だ。日本人が外国人に利用されるケースは増えている。外国人は利己的でどんな事も政治的に考えて、自分の得しか考えない者はいくらでもいる。しかし、私はそれでも良いのではないかと思う。日本人の心はこうである。おもてなし、親切礼儀など日本人の特質を分かってもらうだけで良い。見返りを求めない心が大事なのだ。日本の心を分かってもらうだけで、外国人は日本に好印象を持つ。お手本になる国は仏教を国是としてその国の文化を誇りに思うあの国だ。幸福度が日本より順位が上だが経済的には貧しいが医療教育は無料化されているらしい。私は日本がそんな国になって欲しい。私が太田氣功道場を開いている大きな理由はその理想である。日本人には自国日本の伝統的な精神や文化を大事にして欲しい。今までもそうであったが、伝統精神文化を日本人全員が持つ事でこの小さな国が世界にその名を轟かせる事が出来るのだ。外国人が真に求めている物は精神文化なのだ。