筋肉其の二

筋肉は年齢を問わず、鍛えることができる。例え百歳になっても鍛えて効果のあるものである。筋肉を鍛えると筋肉が硬くなると思うだろうが、我々の氣功の站椿とジャンプを長年経験すると、使う時は硬く、使わない時は綿のように柔らかい。つまり硬くて柔らかい。不思議な感覚である。緊張と弛緩、ハードとソフト、の絶妙なバランスを獲得することができるのである。リラックスしている時は、緊張は無く、とても柔らかい。筋肉を使い力が必要な時は鉄のように硬くなる。鉄と綿が筋肉の中に両方とも存在するのである。訓練修練すれば経験できる。太田氣功道場の指導員は全員たったの一年半の間に脚の筋肉は驚くほど大きくなり筋肉を締めるように力を入れると鉄 のように硬くなっている。

筋肉を鍛える意味

どんな人間の身体活動では、特にスポーツ、更に武術においては、目的を達成する為の筋肉の養成が必要になる。当たり前のことである。一流のスポーツ選手、野球とサッカーに例を挙げよう。例えばイチローは四十を過ぎても、まだプレー出来る身体を保持している。サッカーのロナウドクリスチアーノは毎日の筋力トレーニングを欠かさない。氣の世界も同じである。氣のトレーニングは瞑想である。では、筋肉と瞑想の接点は何であろうか?筋肉を鍛えると筋肉細胞の中の筋紡錘と言う組織は人間の脳細胞と直結して筋肉と脳の間の連絡をより活発にするのである。瞑想も脳を刺激して脳と筋肉の氣の流通をより活発にするのである。筋肉を鍛えるということは、実は脳を鍛えることであった。私が、あるテレビの番組でお会いした格闘家の船木さんは、格闘の最終トレーニングは瞑想ではないかと言っていたのもそのことを意味しているのではないか。野球でもサッカーでも超一流の選手はいづれそのことに気づいて最終的には瞑想を行う筈であると私は思っている。一流であればあるほど、筋肉鍛練と瞑想の関係に気づく筈である。翻って、氣功の勁空勁のコツに戻る。脳と筋紡錘を築き上げた身体は瞑想を必要とする。私は師母にアメリカを離れる前にこれからは瞑想が必要だ。と言われていた。言われる前から、朝晩一時間、毎日すでに、私は行なっていたのである。三十年ほど経つであろうか?今でも毎日瞑想しているのである。瞑想して氣の準備、筋肉の準備はいつでも使えるようになっている。いつでも臨戦状態である。練習や講習会の前に特別なことはしない。必要ないのである。平常心とはこういうようにいつでも臨戦状態になっているので、何があっても慌てないようにする。地震や火事に備えて、災害が来ても慌てないことと同じではないかと私は思う。とにかく、筋肉を鍛える、鍛えないに関わらず、瞑想することである。瞑想して損することはない。

コツ其の四

勁空勁の技術的内容を説明して来ているが、いくら技術を習得しても基本を作らねば、砂上の楼閣となる。尤氏意拳の宗家創始総師範がそうである。写真の立ち姿を見ただけで、脚は太く無く、ツルの脚のようなぶざまな姿を晒している。これでは、満足な勁空勁は出来ない。それに加えて、三十年ほど前に私から習った初心者用のテクニックを使えば、指導員と思われる者のジャンプは女の子のジャンプになって当然だ。基本の站椿の時間が足りないのと脚が長くて膝を極限まで曲げられない。氣の力がないのである。まさに氣が無ければ、私のレベルには到達出来ない。私の站椿の時間に比べて、赤児のようなものである。ジャンプの回数を検証してみるがよい。師母とのジャンプの回数はいくつであろう?たった二回面会したのは、私が連れて行ったから事実だが、そこで、私が写した写真を飾って、数年間の過酷な修練をして日本に帰国したとまるで私の話を自分のこととして、ホームページに掲載していたのを私は見ている。こんなことで、私の勁空勁と同じにされたのでは、たまったものではない。つまり、技術よりも氣の力が重要なのである。毎日の基礎の訓練の蓄積が勁空勁の強さ、重さになるのである。

コツ其の三

我々のこの類まれな勁空勁のもう一つの大特色は、勁空勁時に、飛ばされる側はジャンプをするのである。このジャンプは、太極拳の震脚と言うのがあるが、震脚は片足でするものであるが、我々のジャンプは両足である。私がジャンプする前に先輩のジャンプを見るばかりで、結構長い間していたけども、いざ自分がジャンプを許されて、飛んでみると、たった数回で息が上がってしまい長く続けられない。ボロクソにお前の脚は弱すぎると罵倒されて、やっとその意味が分かる。リラックスしないと師母の氣は受けられない。強い脚の筋肉で踏ん張らないとジャンプは出来ない。リラックスとジャンプ、陰と陽である。この陰と陽の絶妙のタイミングとバランスをうまく使い、出来るだけ長くジャンプを続けるのである。この辛くて楽しい修行を数年間続けると身体に変化が現れる。下半身は相撲取りのお相撲さんのように、競輪の選手のように筋肉が勝手について、銭湯に行くと、同年輩のおじさん達が驚いてジロジロ見てしまう。短パンを履くとウェートトレーニングでもやってるんですか?と聞かれるくらいになる。そのくらいになると、風邪を引いてもスグ治るし、体調は健康人のそれを超えて超絶好調になって、気力体力は常人を超えてしまう。肌はツルツル、スベスベになって赤ン坊のようだ。一方上半身には筋肉は余り、ついてはいない。いわゆる一流武術家特有の上虚下実になるのだ。私は三十年ほど毎日二回師母と一対一のマンツーマンでこのジャンプの修行をしたのであったが、他の先輩と同輩は誰も私と同じ修練はしていない。過酷で辛くて、楽しい修行であった。毎回のジャンプの中に大きく気づくことがたくさんあった。瞑想とジャンプ、他の武術にはない独特な尤氏長寿養生功の修行法である。現在の太田氣功道場では一日も早く勁空勁を出来るように新規の道場生を教育するので私が習った当時に比べてずっともっと早く勁空勁が出来るようになっている。だから、習うならば、今である。

勁空勁其の二

もう一つ、全身全霊で押す、同じように相手とコネクト、氣の繋がりを結ぶ。これは大事である。全心全霊と言うと緊張して歯を食いしばってしまう。それでも構わない。押した時の一時にすべきである。その後、リラックスすることである。そうすると緊張とリラックスのタイミングが分かってくる。陰と陽のように、陰の中に陽があり陽の中に陰がある。微妙な加減がある。修練で獲得するしかない。体験以外には正しい勁空勁の学習は出来ない。以前、呼吸法の生徒がナマイキにも私も人を飛ばせると言って、私と張り合った者がいたがこの勁空勁と同じレベルではない。次元が違うのである。飛ばせると自慢する者はまた自己顕示欲の固まりだから、会話のキャッチボールが出来る訳がない。当時の私の道場に通っていた呼吸法の人間は今の私の氣にショックを受ける筈である。どんなに頑張っても、追いつけない。毎日修練を続ける姿勢が大事で、練習と結果はウソをつかない。練習修練が全てである。

勁空勁のコツ其の二

三十年ほど前に、私が日本のテレビ局に呼ばれて、この氣功の勁空勁を見せた時、たまたま日本が超能力ブームで、ある超能力者が私がやっているワザを隣りでジーッと見ていて、次の日だったか別のテレビ局の人気番組で同じようにはい、目を見て、目を見て、と空勁のワザをしているのを、私が偶然見てしまった。一回見ただけのワザを自分でも出来るとしてテレビの前でやってしまう、盗っ人根性丸出しの人の前に出たがりの超能力者であった。勿論、勁空勁は同じモノでは無く、チョットバランスを崩しただけのモノではあった。武術として、過酷な、それこそホントに過酷な、訓練修練を積んだ末に習得したものをたった一度見ただけで、こんなにも簡単に浅ましくマネをする。今、尤氏意拳と名乗る創始宗家も同じように勁空勁を見せたりしているが超能力者同様、似て非なるモノである。中国一、世界一の尤氏長寿養生功が一度や二度見たりやって見ただけで出来るモノならば、余りに簡単過ぎはしないか?神拳と言われて半世紀経つモノがそんなに簡単であさましい人間達にマネされて出来るモノなのであろうか?

実は、これには、私に原因がある。私が初めて出会った人間を投げるにはどうすれば?、と日夜考えて、世界を飛び回って、私の肩を押させて、投げたり、コントロールしたりしたものをグッとレベルを落とし誰でも出来るようにやり方を開発、私が考案したものである。氣を充分に貯めてから押して貰えばもちろん出来ることではあるがこの愚かな人間達は習おうとしないので、過酷な訓練修練を積んで研究しないので、結果はそのまま実力相応の姿が如実に出てしまう。あたり前のことである。一つだけ私が確実に言えることは、こんな軽蔑すべきあさましい者達は武術や文化を好きではない。愛していない。愛しているモノは人前に出たがりの自己顕示欲と自分の実力をベースにしないカネ儲けである。超能力も自称私は武術の宗家もそんな興醒めのオトコ達の遊びのようなモノである。そんなシロモノと一緒には、同等にされたくはない。それでは私の三十年の血と汗と涙の修練がどうなってしまうのか?冗談ではない。人生を賭けて、再生の道と心に決めた修行がこんな軽蔑すべきあさましい者達に台無しにされてしまう。本題の勁空勁のコツに戻るが、目を見ることである。その意味は相手の氣をつなぐ一つの手段だからである。お互いがその努力があって出来るものなのである。一方的にする出来るものではないのだ。相手が繋がり、 connection    を切ってしまえば、それまでである。これが修行体系になっている。勁空勁は修行の結果として出てくる現象で、決して人前で見せる見せ物ではないのだ。私が当時氣功を説明するに口でいくら説明しても理解してもらえないので、誰にも分かる形にしたのが皆さんがテレビで見たことである。それで、テレビ局が、視聴率を上げようともっと過激にインパクトのある番組にと格闘家やボクシングの世界チャンピオンとの氣の交流の名を借りた対戦にエスカレートしていく。私が出来ても、私がやられてもテレビ局の面白い番組にはなる。幸い、私の成功率は驚くほど高かった。最終的には、アメリカの黒人のアメフットの冷蔵庫サイズの選手を触らずにコントロールさせられるハメになる。この頃には、私の氣は進化して、ずっと重く、ずっと強くなっていたので、時間はかかったが、空勁は出来たのであった。初めて出会った人間には勁空勁は出来ないと言った方が正しい。しかし、不可能ではない。今私が進んでいる道は、初めて出会った人間に百パーセント出来る勁空勁である。今現在、百パーセントに限りなく、近づいている。修行の成果が、修行が実を結び始めている。

勁空勁のコツ

勁と空勁の手順についてはすでに述べた通りである。両方共にコツがある。リラックスすることである。リラックスしろと言ってリラックスできる者はいない。頭のてっぺんから足の爪先までリラックスするのである。これは難しい。特に武術家は筋肉は硬くて肩に力が入っている。武術家の中でも太極拳のような力を入れずに肩が下がっている、いわゆる、含胸抜背の姿勢を自然に取れている者は氣が流れ安く、勁空勁が出来る。我が太田氣功道場では最初の基礎訓練で頭から足の先までリラックスして肩を下げて瞑想するので勁空勁が出来ることは早くなっているのである。他の同じようなものをしている団体の勁空勁と比べてみるがよい。私が言っていることがスグ分かる筈である。