神田真澄こと姜吉隆の瞑想

最近の瞑想ブームに乗って、我が尤氏意拳の超大先生の神田真澄こと姜吉隆は瞑想家として売り込もうと必死であるが、

この姜吉隆は瞑想のなんたることであるかも理解せずに、人前に出たくて

たまらない。またもや、女性の集まる

美容サロンなどとコラボしてごま化して、チャラチャラした様相を呈している。

尤氏長寿養生功を本格的に習いもせずに

瞑想時間も何時間したかも明かさずに

本名も明かさずに武術や瞑想をおしえようとしている。いっぺん、聞いてみるが良い。瞑想は誰から習い、何年間

習いましたか?武術は誰から習い、

何年間習いましたか?と、答えることはない

だろう。答えても、煙に巻いて、ウヤムヤである。ハッキリ答えることはない。

東京の六本木表参道を一緒に歩く若い

モデルのような女子をいつも探している。昔からそうであったが、今でも、

瞑想にかこつけて、物色しているのであろう。瞑想と美容は関係は無い。

しかし、本格的に瞑想すれば、

内側から美しくなって来る。こんなチャラチャラした瞑想もどきでは効果がある

筈はない。嘘と虚偽に騙されてはいけない。ジッとこのオトコの言うこととすることを良く聞いて、見て、アンテナを目一杯張って、注意深く様子を見ることである。聴いているうちに 何か食い違ってるなあ、何かおかしいなあ、

瞑想してる割には感情的になるなあと

思う場面が出て来る。年齢の割りに成熟していないからだ。万が一、カネの話が出たならば、

即刻その場を立ち去ることである。

何も言う必要などはない。すぐ、離れることである。自分が傷つかない一番の

方法である。私も経験がある。関われば

関わるほど、自分の身が傷つき、カネを

失ってしまう。今、破門にして、関係を切ってあるので私は以前に比べて、幸せだ。

生き甲斐其の二

生き甲斐の延長上に修練して、技術の練磨、自分自身の完成を目指すことがある

のであろうが、そのためには、毎日の

訓練修練修行がどうしても必要となる。

私もこの尤氏長寿養生功を私の手に

委ねられてから、毎日の瞑想と修練を怠らない。欠かさないのである。当然、

一日の生活のリズムは氣功修練が主体となって、他のことが入り込む余地はない。朝起きては瞑想、起きては、脚腰の鍛錬、就寝前に瞑想の毎日である。

何も苦にならない。当たり前の一日の

流れとなって、年月が過ぎて行く。

今、私の顔を、朝に鏡を見ると、あれだけ真っ白だった髪の毛は真っ黒になって

いる。私の白くなったヒゲを見て、師母がヒゲを撫でて、ダメだ、黒くしろ!と言われたことを思い出す。私も老齢の身

になって、師母も毎日修練訓練瞑想の

結果、百になっても、髪は黒く、肌は

ツルツルであった理由が分かるようになった。毎日の瞑想訓練修練が生き甲斐の

中味なのである。その結果となって、

生まれるパワーを羨ましがって、パワーの技術ワザだけ習っても、意味はない。

そのパワーを支えるものは朝から晩まで

の修練と瞑想であった。見かけだけ、外見のみを追いかける者は浅はかな結果

のみ、自分を師範と呼びたいだけの

理由でこの尤氏長寿養生功に関わり、

生活費を稼ぐ手段だけの為に身体が大きくても働きたくないので、尤氏意拳

肩書きだけの師範にしがみつく。

浅はかで見苦しい。

結果、私にとって、鼻くそのような

ワザ技術を秘技秘術と自称して、私に見られるとマズイので隠してしまう。

なんという生き甲斐なのであろう?

ぶざまな生き様の生き甲斐は生徒に

どう説明するのであろう。

こんな人生を送る人間を尻目にして、

私の生き甲斐は、私の毎日の瞑想訓練

修練は、続けられている。

砂浜を裸足で歩くこと

氣功の威力で患者に砂浜を歩いてもらって、足の筋肉をつけてもらって、完治した患者のことを話した。これには理由がある。下半身に異常が起こる場合、

その異常の箇所に邪気がたまり、氣が

流れなくなっている。砂浜を裸足で歩くと、砂浜が邪気を吸い取ってくれるのである。この治療法は大本教の出口王仁

郎聖師が当時提唱していたものである。

身体の悪い信者をこれで数多く治したと言うのだ。他にも老人が健康で長寿になる方法など、面白いものがある。いづれ

折を見て、紹介したいと思う。為になる

話しがいっぱいある。この出口王仁三郎聖師の話しは機に見て敏で面白く、人間の本質を理解して分かりやすく、説明してくれる。私は勉強になるので、本を

何冊も持っている。現代の怪しい

宗教家には書けない書物である。

生き甲斐

生き甲斐を持つ者は幸せである。

どんな時代にも生き甲斐はある。

学生時代に、社会人の時に、どんな時代にも何か熱中するものがあり、熱中できるものがあることは、辛いことなど、

気にせずに生きて行ける。心身共に

若い精神と肉体でその時代、その時代を

生きて行けるのである。その生き甲斐も

老年になった時でも、持てているならば、青年の精神を持ち続けて、若さを

保てるのである。もはや年齢は関係無くなって、気にならなくなる。

私の生き甲斐は尤氏長寿養生功を教授して訓練修練を続けることである。

気持ちはいつも若く、その精神は肉体を若くする。年齢のことなどどうでもいい。氣功の極意を極めることに集中して、後続の氣功家を育てることは私の

悲願となって、その生き甲斐が私をより長く生かせてくれる。長寿養生の秘訣となっている。私の死の直前まで精一杯

練習瞑想脚腰の鍛錬を敢行する覚悟である。最近、あれほど痛くて曲げられなかった左膝は深く曲げられるようになった。左肩の拘縮も良くなって肩をグルグルと回せるようになった。リハビリの効果が出てきたのである。リハビリは今

生き甲斐となって、死ぬ直前まで

自分で行なうつもりでいる。私を武術家とは呼んではないが、武術が好きで、

身体を動かすのが苦にならない。

楽しい、そして、身体に効果があり、

変化を感じることで、もっとすれば、

もっとケガを治すことができると思うと、徹夜をしても、眠くもならずに

朝までリハビリをする時もある。

一生涯続けられる趣味、生き甲斐を

持つことは、特に氣功などの身体運動や

瞑想は人間を幸せにしてくれる。

最近になって、何故師母があんなにも

元気で健康で百を超えても、目と脚は問題があったが、耳は聞こえて、頭はビックリするほどシャープであったことが

理解できるようになった。

私も師母にならい、師母と同じように

なろうと毎日、毎晩、修練を怠らない。

氣功の威力其の二

もう一例紹介しよう。ある日、新患から連絡があり、歩くことが好きで、毎日

歩いていたが、急に歩けなくなって、病院に行って、頭のてっぺんからつま先

までチェックしたが、どこも異常無く、

原因が分からないので治療は出来ないと言われて医者から見放されたと言う。

西洋医学では、診断して病名がつけられないと治療は出来ないと言われたと

言うのだ。私は病名はなんであれ、

東洋医学鍼灸の分野では氣の流れが

悪くなって、身体に異常が起こるということで、鍼を打って、氣の流れを良く

するのが東洋医学の治療になることを

説明して膝下の足三里のツボに鍼を打って様子を見た。二十分後、動かなかった

足首、親指が動き始めて、初回治療で、動かなかった足は動き、帰りは、びっこ

もひかずにスタスタと歩いて帰って

しまった。先生、何が原因だと思いますか?と聞くので、氣の流れが悪くなっていたようです。氣が流れたので、歩けるようになったのです。と言って、筋肉を

つけないといけない、海の近くに自宅が

あるので、海岸の砂浜を裸足で毎日

歩くように指導して、この患者は六回

の治療で完治したのであった。

西洋医学では原因が分からず、見放されても、東洋医学では氣の治療で対処

できる。氣が流れなくなって、病気

になると難病となって、あちこちの病院を転々としている患者もまだ東洋医学にチャンスはある。諦めずに鍼灸や漢方、氣功に活路を見出して、病気難病と闘う気迫と

東洋医学の知識習得が必要である。

情報公開と羊頭狗肉

今、政治の世界で情報公開がなされておらずに 尻切れトンボの羊頭狗肉の内容の政治家がはびこる政治が行われている。武術の世界にも同様に羊頭狗肉の尻切れトンボの武術が現れて、情報公開もされずに、ボクが学んだ秘技秘術の

情報公開を拒否している。政治家と武術家は嘘をついて、逃げ回っている。

一体、日本はどうなっているのであろう?日本人ではない者が日本人を騙して

寄付と言う法律に問われない葵の御紋の

言葉を使い、多額のカネを巻き上げて、

私の返済要求に対して拒否して、逃げ回っている自称武術家、神田真澄こと姜

吉隆はこの国の政治家のように口だけは

立派なことを言い、羊の頭だけ見せて

実は犬の肉を売っている。頭は尤氏長寿養生功を掲げて、その肉、内容は日本

拳法である。これでは日本拳法が哀れ

では無いか?日本拳法がバカにされているのではないか?日本拳法の心ある者たちもいつまでこんなアホなことを許して

いるのであろう?私にはいづれはクタバル武術団体のことなどどうでもいいが、

政治家もここまでやると辞任辞職の責任が伴うが、このやりたい放題の自称

武術家はこの

責任をどう取るのであろう。

情報公開は現代の民主主義国家には

当たり前で、必要不可欠なものである。

政治家も武術家も変わりはない。

こんな時代に羊頭狗肉の武術商売をする

自称武術家はどう落とし前をつけるか、

そして返済されるべきカネをどうするのであろう?昔の時代ならば、政治家も

武術家も切腹ものである。