氣功の威力
私には忘れられない治療がある。
治療院を開いていた時の2005年頃の
話である。ある七十代日本人老女がリュウマチ性腰痛で来院した。病院で不治の宣告を受けて、沖縄県人会の会長さんに強制的に連れて来られて、とにかく
騙されたと思って治療されなさいと言われて二人で来院した。かまびすしい
老女で口が悪い。こんな氣の治療なんか私は信じない。今までスタンフォード
大学の世界的なドクターに診てもらってたのよ!と、たかが鍼灸師のくせに、てな雰囲気である。身体の歪みを整えて、針を数本打って、氣を流し始めて、聞いてみた。何か感じますか?と、私言ったでしょ、氣なんて信じないって!と相変わらずうるさい。が、十五分か二十分
経って、氣を流し続けたところ、先生、さっきから脚が震えてるんだけど、
止めようとしても止まらないのよ、と言うので、止めてはいけない。震えるままにして置いて、と言ってさらに、氣が身体の経絡を通ろうとしています。そのままに!と、治療が終わり、はい、痛みは?と聞けば、全くないと言う。じゃあ、正座しましょうと促すと、またうるさく、今朝もいろいろ身体を動かして、正座もしようとしたんだけど、無理、
無理、出来ない、出来ない、とどこまでもうるさい。まあ、とにかく、やって
ごらんなさいと言ったら、既に、正座で
座っている。あらま、出来ちゃった!と
いう結果で、結局、この一回の治療で
リュウマチ性腰痛は完治してしまった。
この後、ご主人が犬の散歩中に転んで、顔に殴られたように目の回りに青アザが出来て、また、来院した。これも一回で、痛みは消えてアザも消えてしまい、これ以降は氣の信奉者となり、良く来院しては良く喋る患者となった。氣を信じる、信じないに関係無く、氣が経絡を通れば、痛みとか慢性の病気も即治する
典型的な例であった。こんなことは、
治療院を開業している間にいくらでもあって、数限りなく起きていたのであった。武術的な効果と威力はもちろんのこと、東洋医学の鍼灸の世界でも絶大な
威力を発揮する。鍼灸師には必要
不可欠な勉強である。
文質彬彬 ぶんしつひんひん
文質彬彬とは論語からの言葉である。
文は見た目のこと、質は中身のこと、彬彬は釣り合いの取れていることだ。
すなわち、外見と内面がバランスが取れていることだ。私がこれまでの人生で、武術の世界の人間は文質彬彬ではなかった。内面がカラッポな割に外面が
バランスが取れていないほどに外ヅラが
良くて口が上手だ。
私の理想とするは文質彬彬である。素朴で飾らない、知性と教養が
滲み出てくる人柄である。論語には
勉強になる言葉がたくさんある。
カネばかり欲しがる武術家は、外面を高級なもので飾り、内面を磨くことはないようだ。私がこれまで知って来たこんなダメ武術家は多かった。口は驚くほど
達者で、大勢の人間が騙される。
そんな武術家はみんな私の反面教師で、教師であるから、習うことは多い。
彼らのようにはなりたくない。
尤氏長寿養生功では、道場生と指導者の垣根は無いのに等しく、段位制度も設けていない。段位制度を設けるとどうしても上下関係が出来て、上の者は何を勘違いしてか、威張り散らすようになり、
道場内の雰囲気が悪くなる。知性や教養も無く、カッコだけの武術となる。
実力も伴わない。こんな武術は、私は
ごめんである。特に大学の体育会系の者に多い。アメリカでも経験がある。自分の強さばかり誇示する頭筋肉の武道家であった。そんな武術家とはとっくの昔に
縁を切り、その後は、そんな連中とは会うことも無いから、ストレスフリーの状態となった。何故、ワザを、技術を
磨いて、ワザを身につけて、楽しむこと
より、己れの強さばかり欲しがるのであろう?ワザにしても、また競争心を燃やして、自分の方がうまいとか、ある段位を最年少で取ったとか、またもや、
競争である。尤氏長寿養生功には競争が無い。平和で共存共栄共生を意識して
毎回の訓練を行う。もし競争する対象があるとすれば、私である。私を越えよといつも言っている。あるいは、自分の内に住む傲慢、怠惰など、武術修行に邪魔になるものである。
外面と内面の調和を取るのである。
文質彬彬である。
神の微笑み
先回の記事で苦難困難を嘘や虚偽無くして真っ当に乗り越えた者は幸せであると言った。苦難困難を真正面から、真っ正直に立ち向かい、傷を負いながらも、解決した者には神が、天が、宇宙が微笑んでくれる。小さい幼少期の頃は、母親が喜んでくれるから、微笑んでくれるから、小さな手で、小さな身体でいろいろなものを成し遂げて、お母さん、見てえ、と言ったように、頭を撫でてもらうとすごく嬉しくて、次はもっと頑張ろうと思うように、神、天、宇宙は、我々
が頑張った分だけご褒美をくれるのである。神が微笑みを向ける時は、ものごとがとてもむづかしく、難解で、時間がかかり、多くの努力勤勉精進が必要で、
それを達成した時の達成感と成し遂げた
安心感と次へのさらなる目標への
期待感などの希望に満ち溢れる満足感
に心は高揚して、多幸感に浸ることができる。まさに神の微笑みは母親の愛情のようなもので、微笑みを向けられた経験のある者はさらなる試練もまた同じような努力精進で乗り越えられる。また、
私ごとで僭越であるが、私は神に微笑んでもらった経験が何度かある。歳を重ねるとそんなことは誰でも経験するはずだ。私だけではないと思う。特にこの尤氏長寿養生功を習い始めてから、瞑想を毎日行うようになってから、神の微笑みを何度か見ている。不思議なことだ。
そして、今、家族を持って、愛する人がいて、毎日を過ごしているならば、
神の微笑みは愛する人の微笑みと家族の
微笑みとなっているかもしれない。
どっちにしても、その微笑みがあるから、次も頑張ろうと思えるはずである。
私は最愛の妻を亡くしてしまったので、私の家族はいない。瞑想の際の氣の交流の対象は神、天、宇宙である。瞑想が
上手くいった時は、とてつもなく、気持ちが良い。まさに天にも登る心地がする。これも神の微笑みであろう。
自分がやり遂げた分だけご褒美が
もらえるのである。どんな時も、どんな状況に陥っても、神、天、宇宙は私の側にいてくれるのが分かってからは、いつも安心で、何かあった時は、目を閉じて呼吸を整えて、瞑想するだけで、神、天、宇宙と繋がるので、不安や心配は無い。自分ながら、良いこと、特別なことを習ったと感謝せざるを得ない。
堂々たる人生
人生は長いようで、短く、短いようで長い。人によって、さまざまであろうが、今生で、今持っている名前での人生は
一度限りであり、二度は無い。
人生は真剣勝負であって、やり直しは
きかない。そんな自分の人生を生きるにおいて、自分の経歴や履歴をごまかして、嘘や虚偽をもって生きるとどうなってしまうのであろうか?誰もそんな人生を送りたいとは思わない。送ってはいない。そんな人生を送っていると知られたら、信用信頼は消えて、恥の一生を終えるであろう。人生には困難、苦難がつきものである。苦難困難に立ち向かい、
難問を解決して、ハードルを乗り越えた時に苦悶のトンネルをくぐり抜けた時に
安らぎと安心と楽な時間が待っている。
正直に愚直に、与えられた責務を果たす。そんな時を経て、今に至っている者は幸せである。嘘や虚偽も無く、真っ向から、逃げずに苦難困難に勝負を挑み、
自分なりに解決する。まさに堂々たる
人生ではないか?一つしか無い自分の
命、人生を生きている私もあなたも
「自分」を生きているか?
真似をする人生ではない、自分自身
の人生を生きた者が、この世を去る時に
顔に笑みを浮かべて、俺は生まれて来て、良かった!と思えるのではないか。
堂々たる人生、人生は素晴らしい。
堂々たる人生は素晴らしい。
幸せの条件
人によって幸せとはさまざまな意見があると思うが、僭越ながら、私の私見を述べよう。私が尤氏長寿養生功を訓練して以来、楽しくて、嬉しくて、自分の願いを叶えてくれる私の秘密兵器みたいなもので私の人生になくてはならないものとなっている。特に瞑想は生きるのに
不可欠なものである。
自分の天命を知って、天職を見つけ、
少しのお金でも自分の身の回りの
ものを整えるだけの最低限の金額を
月々銀行の通帳に入れる。決してお金が不要だとは言ってない。
そして、自分の愛する人と過ごす時間で
あろうか?
自分の信頼する友人との信頼関係であろうか?
我々のこの世で与えられた人生は一度切りである。誰もが、不幸せになりたいと思う者などいない。みんな幸せになりたいと思っている。が、カネを持つことが
幸せと考える短絡的で浅はかな者が
圧倒的に多いのが現実だ。しかし、カネを手に入れて幸せになっているとは
限らない。私は限り無く幸せを感じている。欲張りなので、もっと幸せになりたい。努力が必要だ。いくら瞑想しても、いくら神に祈っても、ぼたもちが自分の口に落ちて来る訳がない。口に入るように手に入れることができるように努力することがなければ、何も起こらない。
幸せになるには、人の何倍もの努力
勤勉が必要なのである。その方程式が
解けて理解出来た者が幸せになれる。
生まれて来て良かった。と、
お金より大事なもの
私の今までの人生の間には、カネ、お金が、欲しい、カネの為なら何でもする、と言った者がいくらでもいた。そして、
嘘をついて、虚飾で身を包み、騙してでも、他人のサイフをあてにして、懐勘定までして自分のふところに他人のカネを入れようとしたものまで、日本とアメリカの両方で見て来たのであった。
私はお金より大事なものがあると
この素晴らしい尤氏長寿養生功と出会って、気づいた。人によって、お金より大事なものは違うのであろうが、価値観の違いでさまざまに意見が分かれることだとは思うけども、師母は健康長寿であると言っていた。確かに私の高校時代の友人に見たことも聞いたこともない金額の遺産を相続した者がいる。しかし、二十五年前に会ったことがあって、体調が良くないと言うので脈をとったり、体型などのチェックをして見たところ、タバコを吸い、酒も毎日飲むとのことも含めて、私の診断では、肝臓に脂肪がついている脂肪肝とした。あれから二十五年、
生活習慣を改めない限り、悪くなっても良くはなっていないはずである。
今頃は肝硬変にでもなって、もしかして、存命していない可能性もある。
有り余るお金は使えない。
健康で長生きしていたなら、その莫大なお金も使い切ることができるだろう。
まさに、師母の言う通りである。
他にも家族や友人と答える者もいよう。
いずれにしても、拝金教の一生では
つまらない人生ではないか?
知ってることと出来ること
誰でも分かっていることではあるが、
人が知らないことを教えられて、もう出来たと勘違いをする者がいる。古い文献を読んで、書いてあることを全て理解したと思い、自分はもう出来たと思い込む傲慢で無知な者がいる。誰にでも分かりきっていることだが、知っていることと
出来ることは違う。知ってることは
知識であり、体験したことではない。
しかし、知識は大切なことである。
体験は人間をもう一段階、引き上げるチカラを持っている。小さな引き出しに
知識をいっぱい詰め込んで、実際の場面で引き出しを開けても何も出ては来ない。体験、経験を積み重ねた者はとっさの時に身体が勝手に反応するのである。
言いたいことはもう分かるであろう。あの卑怯でバカな尤氏意拳の宗家創始総師範のカネだ吉隆こと姜吉隆は私がほんのわずか教えたことは全て、出来ることと思い、今に至っている。基礎やほんとの体験が無いから、ちょっと前に教えた
姜吉隆の生徒が講習会に来て基礎の型を見せても驚くほど下手で、基本と捉えるポイントが全く分かっていない。
今、姜吉隆自身がその基本の型をしても、今、私の指導員一般道場生から見ても、笑われてしまうだろう。今現在の
太田氣功道場のレベルは非常に高い。
私が師母から習った通りのことを
今、私が伝えているからだ。
以前は、教わった通りのように教えれば、誰も習えない、すぐ辞めてしまうと思ったので、そのようには教えなかったのである。アメリカで師母が教えていた時に私の知り合いを連れて練習に行くと、とっても、辛い、と言って、すぐ辞めてしまう。今私の下に集まっている道場生は真剣に本気で習いたい者ばかりで、
気持ちが良い。私が教わった通りのことを教えられているのである。
こんな風に尤氏長寿養生功の伝承は
続けられている。
自分が知ってることは自分が出来ることではない。