若き日の思い出

1994年に大阪に氣功教室を開いた私は当時四十代で血気に溢れて一人、日本で氣功家としてテレビに大々的に紹介され、

飛ぶ鳥を落とす勢いであった。道場を開いてすぐにテレビのモーニングショーの生番組に又紹介された。ゴールデンウイークにもかかわらずに相当な数の日本人がこれを見て道場に道場生が殺到した。

堺の道場が呼吸法の道場の近くにあって、呼吸法の生徒が一日何十人と入会して来る。一か月で三百人程集まり、狭い

道場はごった返した。当時の私は、

武術の修行を終えたばかりの体格と

誰が来ても投げ飛ばしてやる!との気概を持っていた。挑戦的な者が多かった。

特に呼吸法の人間は普通の主婦のオバチャンが空手の上段者を吹っ飛ばすとのことで、

鼻息は荒かった。生意気である。どこまで本気で対応すれば良いのか分からなかった。教室は4階にあって、大きな窓がある。良く彼らはピンボールマシンのボールのように壁に当たっては向かいの壁に走って又当たり対角線に走るとんでもなく弱い者達であった。窓から落ちるのではないかと心配した。口数は多く、商売人だった。私は大阪弁は出来ない。マネしようとも思わない。少し氣のボルテージを上げないと舐めて来るなあと思ってほんのちょっと、本気で対応したところ、いっぺんに骨折五人、脳震盪一人、アキレス腱断裂一人の惨憺たる結果となってしまった。救急車まで来た。このままで行くと死者まで出てしまうと思った私は考え直して氣の出力を抑えたのであった。

それからはケガ人は一人も出してはいない。師母とのマンツウマンの訓練はこんなにも凄まじいチカラを養成することが

出来ると理解出来た。中国武術の終局目的は殺人である。日本の美容体操のような氣の応用とはレベルが違う。ただの金もうけではない。当時一万人の道場生を誇っていた呼吸法はついに脱税で捕まえられて団体はポシャってしまった。あれから二十五年程経つのであろうか?師母がご病気になり、カリフォルニアに戻って、師母はお亡くなりになられたが、私はまた日本に戻ってきた。今はあの時の私のレベルを超えて指導に当たっている。あれから二十五年も経ち、縁あって続けた道場生は今指導員となって、私を助けてくれている。隔世の思いがある。呼吸法の人間がもういない、来ない。救急車を呼ぶ必要もないので、遠慮なく安心して次の段階へ上がる修練をしている。二十五年前とは全く違うワザはもうすぐ有料動画となって見ることが出来る。呼吸法の者は必見である。

私の道場生も壁に当たっているが、自分で勝手に当たっているのではない。私の意志で、勁空勁で私がコントロールしている。空中へと浮かして壁まで飛ばしている。私はこの二十五年を無駄に過ごして来た訳ではない。進化していたのだ。

これからもずっと進化して行く。

若き日の思い出は恥ずかしく、ノスタルジックでセンチメンタルで、私のワザは拙い。呼吸法では、相変わらず、出来るまでには教えてはいないようだが、太田氣功道場では勁空勁を使えるところまでの訓練を授けている。今は、昔日のように武術的な闘いの雰囲気はない。医療的な氣功道場を目指して修行訓練をしている。が、武術の基礎訓練は残しているのだ。だから、いつでも、誰でも投げ飛ばす準備はできている。

 

 

無鍼の治療

私が通氣の儀式の寸前辺りであったか、その時の訓練のピークにあった私はクリニックに訪れた患者の治療を頼まれた。以前から知り合いであったので、雑談をしていた。いつでもどこでも、リラックスして気だるげに反応していたので、知らずに患者と氣の交流をしていたらしい。患者は治療室の治療台の上で寝てしまった。私もオフィスの自分の部屋に戻り、椅子に座って寝てしまった。時間になって、患者に痛みはどうですか?もう何ともないと言うので、料金を受け取って、見送った。後で気づいて、鍼を刺すことを忘れてた。氣が通れば鍼を刺すことも必要無いと理解出来たのであった。笑い話となっている。

其の三「自分」

1994年大阪で道場を開いた私は道場生が五百人近く集まり、私の懐は潤った。このころにある一家と知り合いになって、兄弟は何遍大学を受験しても合格しない。母親と姉は立派な方で、この二人の兄弟は異常な考えと感覚の持ち主であった。当時カネが足りずに大学へ行けないものと思い、母親と姉の二人を不憫に思って、私のカネと時間を相当にかけて救いの手を差し伸べた。一度は志望の大学受験を私がカネを払って受けさせた。受からない。翌年又受ける。又失敗する。母親は疲弊していた。兄だけで十年の浪人 である。もう大学に入れる力はないものと思い、別の志望学部にムリムリ変えさせる。やっと、やっと短大に進学する。合格後、大学の寮の入寮期限を調べてなかった。一事が万事であった。何をしても満足には事を運べない。怒りが込み上げて来て、言っておくべきことをハッキリ言うと  逆切れした。兄は私が用意した札束を床に投げつけた。卒業しても働かない。好きな職業がないと言う。弟は私の神意拳を習いたがった。強がりで見えっぱりで性格は兄より悪かった。意地が悪い。'いつも寄らば大樹'の陰'の哲学を持っていた。いつも得をしようとした。

其の二の「自分」

今から言うことは、時効の話であるが、アメリカ人にはこんな人物も居て、他人の事情もわきまえず、リミットまで人を追い詰める者がいる。紹介しよう。ある日系人と知り合いになって、私の学歴を聞いて来たので大学は中退しました。と言って、しばらく経った。私が職を探していたところ、 You know what's wrong 

with you?  You dropped out your college. と言って私をなじったのであった。私が自分が望んで、勉学が嫌いで中退したと思ったらしい。何か理由があって中退したのだなと思う思慮もないか?悔しかった。歯医者であった。 当時日本で中退と言えば、経済的事情が理由であることも知らぬ唐変木であった。

私は心に叫んだ。私にアメリカに生まれる機会が与えられたなら、お前より上の学歴と社会的な地位を築いてやる!と。アメリカでは

貧困家庭の場合、手当が厚く、子弟は教育は無料、大学進学も奨学金がたくさんある。もちろん成績は優秀でなくてはいけない。目的を忘れないで、勉学を続ければ、医学部へも、後で返済する奨学金で自己負担が無くても行けるようになっている。銀行も医学部に進学する子弟には無担保で貸すのである。収入が良くなるから取りっぱぐれがない。日本よりはるかに恵まれている。私の東洋医学に対する私の思いを察してくれた、私の友人が入学金と授業料を貸してくれたので、私は鍼灸大学に入ることは出来たのであった。

もちろん、借りたお金は働いて全額返済した。

本当の「自分」に出会う

私は大学を卒業しなかった。というより出来なかった。だから私は大学中退者とされている。学業が悪かったのではない。授業料を払えなかった。在学中に渡米の話を聞いて両親も亡くした私は休学手続きも取らずに日本を去った。アメリカでは、就労の際は履歴書に高卒と書くしかなかった。

そのようなことで、アメリカでは、

自分を見失いそうになりながらも

大学入学を再度果たそうとしたけども、最初の結婚では、

生活が優先して果たせなかった。離婚後、環境が整い、やっとの思いで鍼灸大学に入学する。資格試験合格とほぼ同時に師母と出会い、

修行が始まる。骨を削るような訓練の末に通氣を頂く。そのずっと前に

一度目の結婚は破局を迎え、通氣後に二度目の結婚をする。妻の弱い体はアメリカ在住のストレスと実家の問題のプレッシャーに耐え切れずに

他界する。前述したが2015年に日本に遺骨の妻と共に日本に

戻ってきた。書けば短いが、長く、険しい旅の道のりだった。通氣をもらう前の自分は「自分」ではなかった。日本人とアメリカ人との出会いは、日米間の往復は、世界を旅した、世界中で交流した人々は、その旅は、私の人生は、実際は本当の「自分」に出会う為の旅であったのである。

本当の「自分」に出会うまでには、私の母との確執を解決して「自分」を取り戻さなければならなかった。「自分」を取り戻すと、本来の自分は無学で無く、極貧でも無い、いつも朗らかで、笑みを浮かべて、幸せな毎日を過ごせる「自分」なのだ。と自覚した。親と子供は別個で別人格である。親の因果のサイクルは断ち切った。

尤氏長寿養生功は、そのシステムは、

瞑想が主体で、心理的な障害、トラウマを取り除く働きがある。脳科学的にも、生理的に、ストレスによって傷ついた脳内のキズをも癒す力があるのが医学的にも今では解明認識 されている。 

癒しと再生の道なのである。

線香も焚かず屁もこかず

私は1972年から2014年までアメリカに在住していた。2015年についに、遺骨となった妻と共に日本に帰国した。私がこれまでに関わった人間は数多い。その中には、私を利用しようとした者も多い。経済的に利用しようとした。そうでもないのに、どうも私がお金を一杯持って悠々自適に生活しているように見えるらしい。私の履いている靴や身なりを見れば一目瞭然の筈だが、カネを欲しがる者の目は少し見えなくなるようだ。こんな者がいた。

大学を何遍受けても、不合格する。

受験勉強で徹夜をしたことは見たことがない。食事に誘えば断ったことはない。

酒も飲む。受験セミナーを取れば、大学に受かると思っている。こんな浪人生活

を送って、大学に受かると思っているのだろうか?こんなことを私に言った。

自分は一個も悪くない、一個も悪いことはしたことはない。

そうである。何もしない。何もしたこともない。自分の人生の中で何もせずにジッと家に閉じこもり、勉強しないと

大学には受かるはずはない。私は苦々しく

この者の言うことを聴いた。イライラした。勤勉な態度姿勢も見せずにカネばかり欲しがる。良い人間を装う。

悪い人間でなければ、良い人間だから、カネを出せ、と示唆していた。

こんな浪人生はほんとにつまらない。アメリカではこんな万年学生は professional student  と呼ばれる。毎日正規に働かなくても良い。良く見える。言い訳となる。本ばかり読んでいる。

夢がない。人生をこれから開く者が

こんなにも覇気がなく。カネばかり欲しがる。三十歳で短大に受かり、三十二歳で卒業するが、働かない。縁はすでに切れて、便りはない。私の知人が上手いことを言った。

こんな何もしない人間のことを

線香も焚かず屁もこかず、と言うんだと。

 まったく同感である。

 

 

私の前に道はない

私の辿った人生の道には平坦な道は

なかった。日本でも、アメリカでも、私の能力不足もあるだろうが、何を成そうとしても、高い壁とイバラの道は用意されていた。余りの困難さに諦めようとしたことも一度や二度ではない。この尤氏長寿養生功も師母の余りの厳しさと回りの道場生のイジメのような執拗な仕打ちに心打ち砕かれ、小旅行を何回もした。気分転換して次の道を探す。その繰り返しであった。私の人生を再構築して幸せになる土台を作る。自己の心身を鍛える。特に瞑想を深める。一朝一夕には出来ない。五年が経ち、ついに通氣になると、険しかった道は開け、道は平坦になった。荒波は小波小波はなぎに、心身は変わり、下半身は強く重く、逆に上半身は軽くスッキリとして、道は歩くに楽になって毎日は楽しく、顔に笑みは溢れた。今では日本に戻り、また私の前に立ちはだかるものがあり、道は平坦ではないが、私はもう一人ではない。この氣功を

日本で推し進めるに強力な助っ人がいる。指導員のみんなである。最近では、新たに指導員候補も現れて、上級者の訓練の勁空勁の技教授は今、ピークを迎えている。これからこの氣功がどういうことになって行くのか道は平坦ではないことは明らかだ。うっとうしい問題は未だに解決していないが、朗報があった。

中国上海から私はまだお会いしたことがない私の兄弟子に当たる史先生が、この十月に来日されることになった。

嬉しい限りだ。史先生はドクター尤老師と欧陽敏師母がアメリカ行きの前に上海で

尤氏長寿養生功を習っていた方である。

徐々に仲間知り合いが増えていく。

氣は宇宙のエネルギーで暗黒物質、暗黒

エネルギーと同じであるから宇宙が拡大されるように、正しく秩序を守り

正しく氣を修練すれば、拡大して

当たり前なのだ。私の前に道はないが、

もう一人ではない。イバラの道は

歩き易くなっている。この修練する氣が

どのような変化を遂げて行くのか、

史先生といろいろお話しすることが

楽しみでならない。