近道

尤氏長寿養生功を長年修練して今教授をする身になり、習得をすることに近道がないかとさまざまな者がいろいろな方法を考えて修練しているのを横目で見ながら、私は訓練に励んだ。ある者は近道にウソと虚偽を選んだ。ひとつだけ真理があるとすれば、尤氏長寿養生功を学ぶには「近道」は存在しない。もし近道というものがあるとすれば、それは、毎日コツコツと言われたことを繰り返すことしかない。ウソと虚偽で己れを誤魔化せば、誤魔化した分だけ自分の氣とチカラが削がれるだけである。私の同輩に瞑想の機器で脳波を毎日図り、通氣を六ヶ月でもらった者もいたけども、通氣になる時間の競争をしていた修行ではないので、私にはどうでも良いように思われた。少林寺拳法でも最年少で五段になったと豪語していた者もいたが、どれだけ早く免許皆伝をもらったかということが重要なことではない。特に氣功武術に於いては、内容が問題であって、瞑想をどれだけ深く出来るか、どれだけ氣が出るようになったかということがとても重要になる。年若くして師範になったと自称しても見る者が見ればそんなチカラがあるかどうか、一目見れば、分かってしまうのである。人生の経験の少ない若造がどれだけ威張ったところで、言っていること、書いている内容を吟味するとどれほどの実力とチカラと経験があるかは歴然とする。笑われてしまうのがオチである。ウソと虚偽で誤魔化したモノかどうかは自分自身が一番良く知っている。これからもっと歳を重ねて老齢になって、自分自身に本当の自信がないままにごまかし続けることはいつバレてしまうのであろうかと常にオドオドして気が気でない、なんという人生か?と嘆くことになってしまうのだ。尤氏長寿養生功に近道は無く、人生にも近道は無い。近道を得ようとする考えがすでに、大成することに失敗しているのである。

近道は無い!!。

 

戦後七十三年

私は戦争を知らない。日本は戦争で丸裸となった国をゼロから築き上げて、エコノミックアニマルと言われながら、経済中心の国の再生を図り、七十三年の年月が過ぎた。経済優先の結果、得たものも大きいが、失ったものも大きいと思われる。私の身近に起こったカネ、カネ、カネ、の不祥事は日本人の心を失った者のアニマルのように、カネに飢えた人間の所業であった。日本人の心は何処に行ってしまったのだろう。心が伴わないカネ目当ての人間関係は自分の信用を失くして、寂しい人生を送ることとなる。今まで一緒にいた者の心は離れて自分の周りからいなくなってしまった。日本人でなくても同じことをすれば、人心は離れるだろう。そんなにカネが欲しければ、武術でなく、金貸しにでも弟子入りしてカネを稼ぐことである。武術で有名になりたい、カネは欲しい、では、あまりに身勝手で欲張りだ。強欲は身を滅ぼす。見えないものである氣を訓練する者は、カネやものに執着心を持たない。心が乱されてしまうのである。瞑想をする限り、ある意味で禅宗の修行者である雲水の心境になることが必要である。あまりに俗的にカネやモノに執着すると、氣功のワザを習得出来ない。そろそろ、振り子のようにカネやモノから心の方に日本は戻る時期に来ていると思うが、我欲と私欲は人間の持つ性であるので振り子が戻ることは難しいものと思われる。

我欲に私欲

ものごとを達成する時に何の為にそのものごとをするのか良く良く考えるべきである。カネが欲しくてするのか、売名行為でテレビにでも出て有名になりたくてしたいのか、そんな人間は尤氏長寿養生功を修練する資格はない。例え、修練しても大成することはない。ましてや武術や氣功にそんな我欲と私欲を持ち込むこと自体が、おかしな話である。修練するのが面白くて、好きで、興味が先に立って、長い間に修練する内に、自分に実力と自信が自然とついて、なんとなく、教えることになってしまったというのが、私が教えることになった経緯である。一心不乱にものごとに寝食を忘れるほどに好きになることが人生の中にあったろうか?そのことが自分の職業や生き甲斐となった者は幸せである。好きでも無く、ただ売名と自己顕示欲とカネ目当てでしたことは何処かの時点で破たんする。本当に自分のものにはならない。ウソと虚偽で自分の経歴を作り上げる行為などをすれば、どんな結果が待っているか言うまでもないだろう。目的が不純過ぎる。後に続く道場生にとって、公の大目的に私的なことを見れば、興醒めで、本当の彼らの心は人の為に、人の役に立つことに価値を認めるものである。タヒチに於いて、氣功の氣とワザを駆使して、患者から治療費を一切取らない私をタヒチアンは心の底から信じて、尤氏長寿養生功の価値を認めて理解してくれたのであった。

莫妄想、日々是好日

禅の言葉を再勉強していたところ、なぜに私がこんなにも幸せで日々に充実感があって、さまざまなことに興味が湧いて、人生を謳歌しているのか、この言葉が私の気持ちを表していると思ったので、共有したいと思い、これを書いている。莫妄想とは、存在しないものに囚われない、過去も未来も存在しないものにこだわりを持たずに今この現在に全力を尽くして一生懸命に生きる。そうすると現在の一点に集中するから次々と一点に集中する連続が自分の人生となるので迷いを持つヒマもない。その集中の連続が毎日の生活を幸せにして、何をしても、何処に居ても、楽しく嬉しい幸せな日々を過ごす秘訣、哲学となる。と、こういうことではないか?と思われる。思えば、三十年前に尤氏長寿養生功と出会った時から莫妄想、日々是好日という生活が始まり、毎日するべきことに集中して生きて来た。今、現在にその極を迎えて、明日の事を心配せず、昨日のことには拘らないで、今するべきことをする。生活は単純簡素で他のことを考えたり、する時間もない。ここまで徹底してすることをしていると、することには成功の結果が出て当たり前であろう。莫妄想、日々是好日である。

Japanesque

 ずっと言い続けていることであるが、西洋文化を崇拝し、学ぶ時代はすでに過ぎた。最近のスポーツでは日本人の小さな体格やワザの正確さを使って、西洋の国々と渡りあい、世界一となる者やスポーツ団体が現れている。日本人の心を現す文化を表現して西洋人を感心させて感動させるものはまだ日本にはいくらでもある。和魂洋才から和魂漢才へと移りゆく時代が到来している。和魂漢才でも言い足りない。和魂和才となる哲学や考え方が必要な時代になった。日本独自のものが世界に通用するようになっている。尤氏長寿養生功も中国で生まれてアメリカで私が長年修練して日本人の感性と日本の考え方も加味して私独自に開発したもの、ジャパネスクとでも言えるものに変化進化を遂げた。タヒチに拠点を置いて、世界に尤氏長寿養生功の名を轟かせるに日本人の感性をも一緒にドクター尤老師、師母と共にすることが私には光栄であると同時に楽しみでもある。

甘え、悪口、陰口、妬み、嫉み、

先回に比べると、これらは日本人の悪いところ、であるが、武術の世界では、私はこれら以外にも、経験している。特に妬みとそねみには閉口した。才能とカネも無い私をねたんでそねむことなどは時間の無駄だろうと思うが、なぜか、意地の悪い日本人はやってしまう。日本人以外にもアメリカ人と中国人にも相当に師母の道場では毎日のようにやられた。習っていることが武術であるから、最後の部分では、武術的な行使に及ぶ。ホームページの私の回想録に詳しく載せてあるので、興味のある方は参照願いたい。現代にそんな人間が存在するであろうかとは思うが、実力が物言う世界であるから、実力の伴わない者は他のところで自分の悪才を発揮しなければ、自分の意地を満足させることが出来ない。瞑想を長年するとこういう悪想念を消すことができるのであるが、心の奥底に潜む想念と自己の性癖をチョットやそっとでは自分の心から追い出すことは出来ないのである。しかし、瞑想を毎日続けると、悪想念は消えて、日本人本来の美德が現れて来る。カネのことだけ瞑想中に浮かんでいれば、美德など持つことが無く、自分の持つ悪想念が氣によって増幅されて、行動にすぐ、悪想念が実行されることになる。特に最近、まともに汗を流して労働することを良しとする風潮が無くなっていることは嘆かわしいことである。有名になりたい、カネを楽して手に入れたい、と言って犯罪を犯すこともある。

情け、思いやり、正直

正直、勤勉、優しさなど、以上に書いた人間の持つ性善説の内容は、日本人の特性である。これらの特性が日本人を日本人たらしめる。日本に住んでいると、この特性と美德は当たり前になって、別に特別に感じることもないではあろうが、外国に長く住むとこれらの特性や美德は、実は世界で日本にしかない心であったことが良く分かる。台湾には日本精神と言う言葉があって、リーペンチンシェンと発音して、日本の心、徳性を指している。今では古臭く聞こえるだろうが、今、現代に於いて、日本ブームが到来し、巷に外国人が溢れるようになっている。彼らが日本に来る理由はカネ目当ての者もいるかもしれないが、ほとんどの旅行者は前述した日本の特性と美德に憧れて来日する。一方、この日本人の優しさや思いやりと正直を利用する日本で育った外国人もいる。私がそんな経験をさせられて、不愉快であったことは事実であって、裁判を起こして犯罪か否かを問うことは私がするべきことである。利用されて、尤氏長寿養生功の発展前進を停滞させられた。このことは、私が日本人の特性と美德を持って、生きていくこととは関係の無い忌まわしい出来事であった。日本人が世界に誇れる特性と美德は他の外国人では真似の出来ないことで、日本人がこれからも日本人である限り、この特性と美德を持って日本人であり続ける。この特性と美德をアメリカで認められて、そのおかげで、私はアメリカ人に助けられたこともあった。この世界に住む人間である限り、この特性と美德に気づかない人間はいない。このことを知りながら、利用する人間は相当にあくどい奴であるが、日本人は日本人として生きていくしかない。そんな人間とは見切りをつけて、前を向こう。この特性と美德を持って生きる限り、必ず、前途には、良い結果は生まれる。