心の自由

瞑想を始める時には、培った氣を用いて何かを得たいと思い、欲が出て、見た目にも焦って修行する者がいる。ひどい時には、私に向かい小さな財布を見せて、太田君、財布の中に俺の氣が見えるかい、こうして自分の氣をこうやって入れておくとお金が入って来るんだよ、などとあさましいことを言う者もいた。尤氏長寿養生功密教の瞑想をとりいれているから、自分の思いが実現するのであるが、ここまで露骨にやられると、バカな奴、と思ってしまうのである。私も始めた頃は早く上手くなって上級者の仲間入りしたいと思っていたのであるが、年数が経つにつれて修行の意味は考えなくなった。何かを得る為の修行ではなく、

自分の苦しい修行は自己の心魂を磨き、

習うべき技の先に自己の心の自由がある。今は何の為に訓練するのか考えない、と思うようになった。そして心にゆとりが生まれて  心が自由になって、何をしても、何を見ても、何処にいても、

楽しく、嬉しく、幸せに思う。これが私が体験したことである。今でもいつも楽しく、嬉しく、幸せなので心が今でも自由であるに違い無い。お金も贅沢なものも無い。クルマも無い。自転車がある。脚が悪いので、普通に歩くスピードでペダルを漕いで近所を散策するだけでも心がウキウキして楽しい。もうすぐ膝の動脈のバイパス手術を受けた後に私の脚が

奇跡の復活を遂げると思うと、希望と氣が溢れてきて、世界中を駆け巡りたくなる。タヒチに新天地を求めて、新しい友人たちと尤氏長寿養生功を一緒に訓練し、タヒチの島民の治療に当たることが楽しみでならない。このように欲に囚われず、自分の習った瞑想を継続しているとこんなにも心が自由になる。全ての日本人及び、世界の人々に尤氏長寿養生功の瞑想を体験していただきたいと願うばかりである。