何の為に その原点

我々は人生を何の為に生きるのか?、私は何の為に尤氏長寿養生功を教えるのか?ということを常に考えなくてはいけないだろうと私は思う。何故ならば中途で、目的を見失って、道を誤る者が出てくるからである。私も例外では無い。だからいつも原点に戻ることにしている。私の尤氏長寿養生功の原点と言えば、初めて尤氏長寿養生功に出会った時の衝撃と、数年後に遭遇した私の深い瞑想時に感じた、到底カネやモノでは贖えない感覚のふたつである。武術武道を習って、触らずに相手をコントロールして投げ飛ばすことなど、不可能なことであり、しかも小柄な老婆がアメリカ人の大男を投げている。そして、瞑想の時に私の感覚はいつまでもそこに立っていたい、座って、この感覚を持っていたい、と思ったのである。今思えば、この瞑想の時には脳科学的に言うとオキシトシンドーパミンセロトニンなどの幸せホルモンが  大量に脳内で放出されていたと思われる。仏教的に言うとそれはもしかしたら涅槃と言われる心が静寂した悟りの境地のようなことであったかもしれない。何だか分からぬが、とにかく気持ちが最高に良い状態であり、何ものにも代え難い心であった。それ以来、その時の体験をもう一度して見たいと今日も明日も明後日も禅を組むのである。尤氏長寿養生功を習って、カネ儲けをしたいと思ったり自己宣伝の道具にして自己顕示欲を満足させたいと思った者にはそんな経験をする段階にまで瞑想していないから私のようには感じないだろうが、尤氏長寿養生功チベット密教と融合してその瞑想法を取り入れているので私のような感覚があるはずだが、そんな体験が無いのは修行が足りないせいだろうと思う。カネや自己顕示欲の為に教え始めた者は瞑想する時にはカネや自己の名誉欲と自己中心の自己宣伝が今でも頭に浮かんで瞑想していることだろう。公欲ではない、私欲が原点でカネや自己宣伝の為では、瞑想してもそんな夢は実現するわけがない。童話に出てくる花咲爺さんで無い、コブ取り爺さんのように欲の皮が突っ張っていると逆にコブの数が増えてもっと不幸になる。だから、いつも原点を見直して私欲であるか公欲であるかを吟味しておかねばならないのである。尤氏長寿養生功にはチカラが存在する。そのチカラを自分に為だけに使うか人の役に立てる為に使うかで、その人間の値打ちが決まるものであると私は考えている。