其の四若き日映画に出た

1994年の頃と記憶している。

未知への旅人という映画の端役に使ってもらった。私が武道家シュートボクシングの選手を投げる設定であった。

打ち上げの宴会にお酒も出て、盛り上がった頃に中国人氣功家の先生がお酒を水に氣で変えてしまった。映画会社の社長がこんな場で水とはね、というので、私は水の盃を手に取って、水をお酒に戻して社長に渡すと、これだよ、これでなくちゃいけないよ、せっかくの酒を水に変えて飲む奴はいないよ、と言った。

東洋医学鍼灸の技術に補瀉というものがあって、補する場合は右に、瀉する時は左に、針の氣を回すのである。この氣功の先生が酒を水に変えた時に左に回したかどうかわからないが、私は右に回して水に氣のエネルギーを補ったのであった。結果、水は酒に戻った。安い酒を美味い酒にすることも氣には出来るのである。

ヒロシマ其の二

八月の原爆の月なので、もうひとつの奇蹟を紹介する。サンフランシスコでは世界中日本中から人は集まり、さまざまな出会いがある。当時私が就職した会社の上司が私が武道の五段位を持つことに興味を持って、就職は成功した。私が体育会系出身の武道家と勘違いしたらしい。今となっては騙したようだが、私は四年天皇一年奴隷などと言って序列を勝手につける大学武道の体育会出身ではない。そんなものは信じないし、興味もない。

そんな封建的な序列をつけなくても強くなれる、技も切れるようになる、頭と人格の悪い指導者はそんなシステムを作らねば自分の権威を保てないので、四年天皇などいうバカな序列を勝手に作っている。もっとも師匠が連れて来た後輩は私をからかって国士舘大の空手部に見えると言ってはいたが、それはともかく、私の上司は広島出身で、中学生の時に被爆したと言う。

あの大豆の粉の老人のずっと前の話である。

この上司は満員の電車の中で原爆の瞬間に出合った。電車ごと倒されて、人混みの中挟まれて、助かった。何の傷もない。この上司は私を可愛いがってくれて、私の生活はやっと安定した。サラリーマンということである。武道の教授と仕事は両立した。借りていたコンドミニアムにはプールがあったので、夏場は日が落ちないので、毎日泳ぎ、余りに日焼けして、どこかバケーションに行ってるのか、お前は、と聞かれた時もある。すぐ泳ぎは辞めた。この上司に感謝して、私は若く体力も三人前あったので、一生懸命働いて家も購入した。

麻薬の密売人と言われた

男の嫉妬の第二話である。バカバカしい嘘と嫉妬が生んだ話である。私の通氣の後に、道場に日本から来た自称ジャーナリストが私に嫉妬する者と結託して作った話を聞かせよう。呆れたストーリーである。私の友人がその頃メキシコのバハカリフォルニアの先端の避暑地で働いていた。修練でstressを受けた私はその避暑地を何遍も訪れた。ヘミングウェイの小説「海と老人」に出て来るカジキマグロがたくさん生息して釣りが盛んな所である。クジラも回遊する。このバカな自称日本人ジャーナリストはよりによって、私が麻薬の売人であると噂を流して、私を貶めようとした。私を快く思わない同輩道場生とグルになって、

そんな噂を流していた。避暑地の釣船の船長さんの奥さんと子どもの病を鍼で治したら、お礼と言って、釣りに連れて行ってくれた。太った亀を捕まえてご馳走すると言う。動物愛護の方には申し訳ないが、美味しく食べた。あと二頭捕まえようとしたので、もう良いと言って止めた。その頃は動物愛護の考えも無い時で、ワイルドな土地では何でもありの世界だった。心の狭い嫉妬の男達にはこんな体験はしたくても出来ないだろう。私の身長位の魚も二匹釣った。ビギナーズラック

と言われた。

働かざる者食うべからず

私は中学二年生から働き始めた。それから四十五年ほど経ってまだ働いている。五十九年間ほど働いていることになる。もちろん職種は違う。

高校一年から毎日家庭教師をして、私の分だけの教育費は稼いで母親だけになった家計を支えた。私の兄姉が遊び回るのを尻目に勉学に励んだ。四当五落と言われた時代に大学を目指して睡眠時間は四時間を切った。何時も眠く、何時も腹は減った。身体は青年期を迎えて大きくなって来るので、一日中食べた。母親の仕事を毎日手伝い、タオルを一日中洗って、手首に傷があったのを知らず、タオルを洗って

バイ菌が入り、化膿してしまった。

腫れた手首は鉛筆を持たせない。そんな

受験生活と十四歳から働いた私は神田兄弟を見た時に何と甘えてる奴らだろうと

呆れたものである。十年浪人して

チカラ仕事のアルバイトをしていることを自慢する。自分は苦学している良い

人間だとアピールしたいらしい。弟の

姜吉隆も塾の講師をしていたが、私は

これだけ勉強しているというアピールは無かった。ガールフレンドがいて、チャラチャラした奴だった。それでも母親を助けているつもりらしい。母親を本当に助けることは早く大学合格を果たして母親を安心させることなのが理解出来ないようだ。私が食事に誘えば、酒も飲む。食べることは私の倍だ。こんな受験生活をしては、合格を果たすことはむづかしいのでは?と思ったが、案の定、滑るのであった。二、三年後短大を卒業しても、兄は就職もしない。

好きな職業が見つからないというのが、

言い訳であった。歳老いて、働いて兄との共同生活を一人支えた母親は他界した。十四歳から働いた私はまた、額の静脈が太くなって怒りを覚えたけども、これ以上関わることは、私の命を縮めることになると思い、この兄とは

絶縁した。食べることは人より食べて、働きたくはない。昔からの格言に

働かざる者食うべからず、がある。

この大飯食らいで労働意欲のない者にはぴったりの言葉である。弟の姜吉隆は

カネの返済を拒み、今逃げ回っている。

ぜひ、

この兄弟にこのぴったりの格言をプレゼントしたい。

働かざる者食うべからず!

一期一会

一般に一期一会は茶道に使われる言葉であるが、私はこの言葉を命と人生に

使いたい。自分の命と人生は一度きりで、

何度も経験できるものではない。一期一会の言葉がぴったりである。それなのに先生や親、権威を持つ者に抑圧されて、ほんとの「自分」の命を持たずにほんとの自分の人生を生きていない者がいる。

辛くて悲しい気持ちを引きずりながら

生きていくのは私にはかわいそうで、観るに絶えない。不憫である。

今になって、そんなように思う私も

親の極貧と無知無学の因果を引きずって日米の間を往復した。遂に尤氏長寿養生功の免許皆伝である通氣になって、私は

私以外の者が同じように悩む者をなんとなく同士のように思うようになった。

この私の気持ちを利用した者もいるが、

命と人生は誰にでも一度きり一つしかないものだ。抑圧に負けて一度きりの、一つだけの命人生を無駄にしてはいけない。

親の因果の鎖を断ち切らねばならない。

まさに人生は一期一会である。

尤氏長寿養生功の瞑想は心の中に潜む

権威ある者から受けた負のエネルギーによって植え付けられた傷のトラウマを

排除するチカラがある。瞑想によって

培われた氣で心の中を正のエネルギーで

いっぱいにするのである。その闇の負のエネルギーを正のエネルギーで排除するのである。私は氣は神のエネルギーであると教えられた。神のエネルギーは

光のエネルギーで、闇を照らして我々を

幸せにする。一期一会の人生を無駄にしてはいけない。人は誰でも幸せになりたい、そして、誰でも幸せになれる!

悲しみと恨み憎しみに愛を

私の幼少期のトラウマの正体は悲しみと恨みや憎しみ恐怖であった。思えば、そんな負のエネルギーを心に引きずりながら人生を送っても正のエネルギーには辿り着ける訳はない。良いことは起きない。

必然的に出会いもそのエネルギーに応じたレベルの人間としかない。出会う者も悲しみと恨み憎しみを引きずり、私より

ひどいトラウマを持って生きている者もいたのだ。人生の中では、こういう目に見えないエネルギーによって支配されて気づかないままに人生を終える者もいる。そんな人生はごめんだ。

私はラッキーにも尤氏長寿養生功

出会い、通氣免許皆伝のレベルまで師母に教わり私の心の中にあった闇のエネルギーである悲しみ、恨み、怒り、憎しみを愛と幸せのエネルギーに転換出来たのであった。此の世には負のエネルギーを背負って人生を送る人々はたくさんいるはずだ。過去に人に言えない出来事を心の中に引きずる者は、尤氏長寿養生功の瞑想と私とのジャンプをぜひオススメしたい。愛と幸せを知った人生は素晴らしい。邪気を捨て去り、正氣でいっぱいになった心は自由である。人を愛することができるようになる。

其の三若き日

こんなこともあった。筑波大学で氣の学会に招待されて、デモを頼まれて当時の道場生を連れて千葉の筑波まで行った。短い氣の説明の後に氣の交流ジャンプは始まり、全員投げてから初対面の人に対する成功率が七割と言えば、やってみろという話になり、新体道の青木さんも見守る中、時間があるなら、と言って始まった。四十人ほどいて投げた後の計算ではキッカリ七割だった。ある女性はスカートを履いていたので、もんどり打った時にスカートがめくれて覗かれるからやめた方がいいと言ったので大爆笑となった。