艱難

時折、困難艱難について触れているのだが、幸せに至るまでに楽に到達できるとは限らない。さまざまな困難艱難が人

それぞれに襲うであろうが、逃げてはいけない。逃げないで、艱難に立ち向かい、その中で苦しみながらも戦うべきである。その苦しみ自体に意味がある。

その中から学ぶべきことがある。得るものがあるのである。人生を生きる意味を

理解する手段となる。人生を楽に生きたいというのは誰しもそうであろうが、

艱難から逃げては、あろうことか、カネが欲しくて嘘までついて人を騙してまでもカネを奪うように取って、借りて、

返済しない。こんなことでは、幸せになることなどは出来はしない。己れ一人の

快楽、幸せのみを考える者は一人勝ちを

望む者は幸せにはなれない。人生の底を見ることになる。自分が他人の幸せを願い、回りの友人を大切にして、自分の

出来る範囲で自分を信頼する人を助けて幸せになってもらう。そんなように行動出来る者は限りなく、幸せになれると

私は思う。また引用させてもらうが、

艱難の大なる後は幸せの大輪の

花が咲く。大本教出口王仁三郎聖師の

短歌である。私の大好きな歌である。

殻を破る

NHKの番組でリタイアした六十代の

老人達がヒップポップの曲に合わせて、

ダンスを踊る。またブレイクダンスを踊るというものをやっていた。日本の

慣習や仕事仲間の目があって、興味はあっても、なかなか若い者たちの仲間に入れてくれと言えない。定年退職した後で

若者の仲間に入り、今では、若者を

引っ張って Break Dance  の立派な

メンバーになっている。踊りも歳を感じさせない若々しい動きだった。医学的にも脳内ホルモンが活発に出るようになり、アンチエイジングに効果があるという。日本の文化には個人を縛り、行動を規制して色柄の派手なシャツなどを着ると派手

であると言って批判する文化があるが、

この老人達はそういう殻を破って自分の

好きなように老後を過ごしている。

好きなことをする。これは幸せへの近道である。歳や性別など関係はない。他人に迷惑をかけずに自分が幸せになることをするのは良い事で、健康で幸せに

長生きする。これからの日本人の人生

百年時代に考えさせられることであった。自分が自分の行動を規制する殻を

破って、やっと自由の身になった老人達は人生の意味を理解して心の殻と壁を

打ち破って毎日が楽しくて面白くて

次の挑戦は何にしようかとワクワクする気持ちであるに違いない。

老人万歳❗️

無心

NHKのドキュメンタリー番組で、

元オリンピック金メダリストが一度

判定負けを喫した後の再試合の準備を取材した番組があった。再試合一カ月前

くらいに調子が悪くなってスパーリングをしても、得意のブロックが出来ない。

いつもは出来る相手のパンチを自分に当たる前にブロック出来なくなっていた。

無心になれない。心が妙にざわつくのだと言う。

私にも同じような経験がある。2012年のことである。テレビ局からオファーがあって、ロサンゼルスまで来てアメフットの選手とボクサーを触らないで投げてから、東京に来て番組で収録して欲しいと言う。アメフットの選手もまた同じ氣で人を投げられるかという検証かとうんざりした気持ちで引き受けた。アメフットの選手と言えば、体重は私の倍か三倍の体格で

ボクサーと言えば、すぐ殴って来る。

殴られすぎて脳が損傷している者が多い。案の定、テレビ局からは走って来る

選手を触らないで投げてください、ボクサーを触らないで投げてください、と

無理難題を押し付けて来る。それで無くとも、触って投げるだけでも、至難の技である。ましてや当時私は六十を超えて、病氣の後で、体調は良くなかった。

私が反撥すると、なあに、障害保険と

生命保険をかけてあるから大丈夫です。

と言う。そして、妻からは武術的に

やっては絶対ダメよ!と、念をおされていた。

その両方からの鬼のような無理難題をどう解決しようかと悩んだ。危険なのと武術的に投げなければ、あんな牛のようなアメフットの選手など投げられない。その頃の私は

氣が異常に重くなっていた。このことを

今回の番組で使えないかと模索して、

ヤットの思いで最重量の選手を立てなくしたのであった。武術的ではない、平和

的に見えて、氣で完全にコントロール出来ている。執着心を持たずに虚心坦懐に

事に取り組むとこのように道は開ける。

金メダリストボクサーも今ある地位を失う執着心を離れて今苦しんでいる自分を冷静に分析して無心になり、ついに

チャンピオンベルトを奪還したのであった。無心は、執着心を離れた心は、とてつもなく強い自分を作るのである。

だからこそ、昔の武術家や禅僧も無心を

獲得することを目指したのであった。

鼻くそ尤氏意拳

神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆が率いる鼻くそ尤氏意拳は姜吉隆が自分で勝手になんの根拠もなく、日本拳法の内容を尤氏意拳と名乗っている鼻くそ拳法である。しかも、再三私が警告している姜吉隆が私の名を使って作った借金と道場生から奪うように供出させて、己れの贅沢とモデルのオンナに注ぎ込んだ全てのカネを返済せよとの私の警告を一切無視して、あちこち

逃げ回り、頰被りをしている。自分で作り上げたと自称する尤氏意拳も鼻くそだが、

神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆本人の

人間性も鼻くそである。

鼻くそ拳法に

集まる同じエネルギーを持つ生徒も鼻くそであるに違いない。

ホンモノの勁空勁を構築もせずに

尤氏意拳の名を語る。鼻くそ武術家が

鼻くそを社会に振りまき、鼻くその生徒を集める。またその上に、恥もなく、瞑想家を自称する。

人間性がガラクタなので、自分のやることをホンモノと

自分で言わざるを得ない。

己れの分を知らない。鼻くそはいつまでも鼻くそで、脳みそにはなれない。

 鼻くそ尤氏意拳である。

あぐら

今日もリハビリに行った。メニューの筋力トレーニングを終えて、マンツーマンのリハビリが始まる。先回の座禅の話はすでに伝わっており、早速半か趺坐の座禅を試みる。股関節と膝は硬く、キッチリと出来ない。ストレッチを習い、半日ストレッチを行うと関節は柔らかくなってだいぶ座禅の形になって来る。家でも

ストレッチを行って、もっと柔軟性を作り、座禅の形を目指すのである。

このペースで行くと座禅を組んで瞑想する日は近いだろう。今週金曜日には

前受け身を行う。ドンドン、ケガが回復していく。何かしようという意欲は増大している。訓練に私生活に免許証取得に

ジッとしていられない。何かに挑戦したい。不思議な感覚である。そして、毎日が、幸せで精神は高揚している。

Never say never

何も私の息子を自慢したくてこのブログを書いているのではない。私の息子はアメリカで生まれて、医師になった。あの母親に生まれた時から、カネを稼げる男になるように、自分の老後に経済的な心配ないように息子を一生懸命に母親は洗脳していた。中学生か高校生になった時に私の友人の奥さんが学校の先生で、私の息子について聞いて来た。私が息子の学校の成績は悪くないので医者を目指していると言ったら、 Oh No!  医者になるのは

アメリカではとても難しい。学校の成績はオール A でボランティアもしないといけない。お前の息子では無理だ、と。

絶対に医者にはなれないと言うのである。ある日いつもは連絡などよこさない

息子が話しがあると言う。家にやって来て、母親がもう嫌いだと言う。あまりに

医者になってカネを稼いで母親をサポートするのがお前の義務だと毎日言われるのがプレッシャーになっていたようである。私はアメリカではお前の社会的地位とどれだけ年収があるかということで

お前を評価する。俺はお前が何をするか

どんな職業につくかではお前を判断しない。お前が幸せだったら、何をしても良い。お前を信じている。ただ今迄やって

来たことを無駄にするなとだけ言って

別れたのである。今ではロサンゼルスの近くの街に三軒の   Medical Office  を

持って年収を百五十万ドルも稼いで、

母親の財布代わりになっている。

白人は有色人種が自分達の水準以上になって来ると焦って、蹴落そうとする。

自分の子供たちが達成出来ないことを

私の息子が達成してしまうことには

我慢ならない。例え友人であってもだ。

であるから、絶対に出来ない、などとは

決して言ってはいけない。後で恥をかく。

Never say never  である。

 

 

百歳まで生きる

若い者には興味ない話しだろうが、

私には大いに興味のある話しではある。

別にベッドに縛りつけられて、植物人間のように自分の主体性を無くして生きる百歳ではない。私の言う百歳は、健康で

元気で、自立する百歳である。百歳まで生きるには、あらゆる波風や槍のように降る雨と雪をしのいで、病気やケガを乗り越え、

経済的な困難をも乗り越えて百歳まで

生きることは至難のワザである。今迄の百歳老人を見たことがあるだろうが、

一様に明るく、健康で、細かいことにとらわれない、赤ん坊のような、子どものような性格と生きざまに驚かされるであろう。私の師母も赤子のような、子どものような態度で我々に接した。通氣になれば、執着心は無くならないかもしれないが、心の殻は取り除かれて、大人の

ようなずるさや嘘が無くなって、自分の本音が出て来て、言いたいことを言うから、ストレスが無くなって、ますます

の長寿になるようである。

生死は我々が決められない。神の領域である。しかし、人のチカラで長く生きようとすることは出来る。

私も死に向き合った病氣を乗り越え、

大ケガを乗り越えて今を生きている。

一日一日がありがたい。時間を大切に

回りの人を大切にして、縁のある道場生に感謝して大事に思って、最後まで

生きたいと願っている。百まで生きる。