健康長寿と幸せを

尤氏長寿養生功を日本の大阪に1994年道場を開いた時にはただ習ったままの氣功を教授することしか知らなかった私であったが、今では、私がこんなにも幸せになっている事実があり、これをこのまま自分だけのものにするのではなく、この氣功を未だ知らない人にもこの素晴らしい氣功を知ってもらい、修練して私同様に幸せになって欲しいという願いを持ち始めた。そういう動機で、日本の指導員たちとは素晴らしい人間関係を持ち、彼らは私よりずっと年下であるが、時には彼らは私の師であり、私は彼らから学ぶことが多い。そして、タヒチでも、今まで見たことも聞いたこともないタヒチアンと兄弟のような関係になっている者もいる。尤氏長寿養生功を通じて、お互いに健康になって、会って訓練する時にはとても幸せな気分になって、大声で笑うことは毎回である。タヒチに於いても同じことが起きている。私はこの素晴らしい氣功をフランス、オーストラリア、ニュージーランド、全世界に広めて、世界の人々に健康長寿と幸せを届けたい。そして、素晴らしい笑いをみんなに持ってもらいたい。この気持ちが今では、私の尤氏長寿養生功を拡める原動力となっている。一人でも多くの人に尤氏長寿養生功を知ってもらいたい。そして、私の氣功道場の一員となって、みんな一緒に健康で長寿に幸せで、大声で笑う、そんな団体を築けたら、私はこの世に生まれた甲斐がある。私は毎日、幸せで、いつも笑っている。今までの私の人生には悲しいこと、怒ったこと、もうこれまで、と諦めかけたこともあったけども、尤氏長寿養生功を習得した後は、こんな調子で毎日いつも笑って、嬉しくて楽しくて幸せである。理不尽なことをされたら、怒る時はあるが、悲しんだりはしない。何かやると決めたら、諦めることはない。そしてポジティブになった。幸せになるコツである。尤氏長寿養生功を修練すると、自然と健康で長寿になって幸せになる。殺人のワザが活人のワザになって、人類を幸せにする、人類に貢献する、武術医術の混合した氣功なのである。

氣は神のエネルギー

以上の言葉は百歳でお亡くなりになった大本教の大先輩の難波先生からの私が最初にお会いした時に頂いたものである。それ以来、この言葉を念頭に尤氏長寿養生功を極限のところまで修練に打ち込んで、今でも極限のところまで、神のエネルギーになるよう毎日の訓練に勤しんでいる。タヒチではフランスのカソリックの教えが徹底していて、食事の前のお祈りや日常生活に神の話が普通に出てくる。私がお世話になったフランス人の家が山の頂上付近にあって、そこからの眺めはまるで神界から現界を見下ろすような場所にある。私は夜に寝るのを惜しむように毎朝三時、四時に起きて座禅をしていると、この心優しいフランス人のニコラがチョット遅れて五時頃に瞑想をしに同じ場所に来ていた。彼はヨガもやっていて、お馴染みのフルロータスの脚を完全に組んだ形式の瞑想法で、一緒に瞑想すると空気の広がりを感じてものすごく気持ちが良い。氣功には一カ月前に来ていると言う。標高が結構高いところでの瞑想はこのニコラの人柄もあって、神のエネルギーを感じたものであった。私が氣の正体が宇宙の暗黒エネルギー、暗黒物質ではないか?と直感的に感じて今では確信しているのであるが、このニコラも敬虔なカソリック信者なので、人格者である。彼は山歩きや滝巡りが趣味で山の頂上付近にある滝をまるで所有しているように流れ落ちる水をプールに引き込んで、私も毎日泳いだのである。左手と左足が不自由で身体が左半分沈んでしまい、危なく溺れそうになったところを見てアレコレと助けてくれて、心がとても綺麗な男であった。いっぺんに友人となったのはもちろんのことである。ヨガをしているので氣には特別に敏感で、毎日氣功の要点を教えて、私が帰国する前にはタヒチの指導員より上達して目の神、シェンまで感じて私の目で投げられるようになっていた。もう上級者の位置にいるのであった。氣の世界では、氣を感じる者神に近づく者がドンドン上達する。ニコラは敬虔なカソリック信者なのでもしかしたら彼の氣は神のエネルギーであったかもしれない。宗教のいかんに関わらず、氣は神のエネルギーを持つ者を好むかもしれない。最後に難波先生の話は、多岐に渡り合気道植芝盛平が綾部の山中を気合いを挙げて毎日のように駆け回っていた、と言う話もされていた。百歳を超えて生きた方は何でも知っている。

芸は身を助く

このことわざが私の身に沁みたのは今回のタヒチ出張の旅先に於いてである。私の不手際から、スマホのバッテリーが切れてルーターも空港で購入することを忘れたので、タヒチの入管で足止めをくらい、首都のパペエテで一泊せざるを得なくなって、入管のお偉いさんに宿の手配をしてもらい、そのホテルに行っても、クレジットカードが無いから泊めることは出来ないと言う。同じことがニュージーランドでも起きていた。翌日私が行く島への手配がされておらずに私がなけなしの残りのお金で切符を買って、ついにライアテア島に到着したのであった。着いた時には一文無しになっていた。帰りの経費をどう捻出したら良い のだろうと悩んでいたが、私の患者がいっぱいいて、私が来るのを待っていたので、治療で稼ぎ、帰路の経費を捻出すれば、何とかなると思っていたら氣功の弟子たちが毎日私を患者の家まで送ってくれて、必要と思われる金額を最終日までにお金を貯めて、やっとの思いで帰国出来たのである。最終的には日本の指導員と連絡がついてニュージーランドでの宿泊の予約を取ってもらったのである。何かひとつの技術や芸があれば、まさかの時、絶対絶命の時に役に立って、事無きを得る。まさに、芸は身を助く、と言うことである。私にとっての芸とは、東洋医学鍼灸と尤氏長寿養生功の氣功である。人の痛みをその場で治して針が無い時でも、氣功と手技で対処できる。今回も針がたまたま、使い切って無かった時には、氣を使った手技で、医者が治せなかったリュウマチをその場で痛みのあった手足の関節を即治させたのであった。ちなみにこの患者は病院の看護師で、クスリも使わない私の手技だけで痛みが消失した事実にとても喜び、驚いていた。何でも良い。何か自分の得意とするものを持てば、いざという時に役に立つ。尤氏長寿養生功をとことんまで訓練すると私のようにお金をもらって治さずとも、家族に痛みがある時には痛みを取ってあげることも出来るのである。人に喜ばれて、海外では、文化の交流を通して友人を作ることも出来るのだ。その芸はなるべく人を助けるもの、自分にも役に立つものがベストであると言えよう。

 

パクリ

尤氏長寿養生功をパクって、生活している者が二人いることはすでにご承知のことであると思う。キッパリ道場と尤氏意拳の師範と総大将はそれぞれ、私から習っておきながら、両者、自分独自に開発したシステムを教授すると言っている。どうしてこんなにも言うことがそっくりに似ているのだろう。思考形式と生い立ちが 似通っているからであろう。だから同じような行動を取る。パクって盗み取るしか生きる術が無い。そんなことまでして生きねばならない現実は厳しいものだが、境遇をバネにしてパクらず、盗まず正直に生きている者も現実には存在する。生きる術の無い者は哀れである。生き方が見苦しい。見ていて、気の毒だ。いづれ自分の犯した行為の清算をさせられる。哀れなものである。私は尤氏長寿養生功によって過去の私の負の生い立ちの清算をして、この尤氏意拳とツッパリキッパリ道場のマスター二人は尤氏長寿養生功により、自分たちの罪を清算させられる。私は尤氏長寿養生功を習得してから人生は180度転換して、幸せとなり、素晴らしい 人間関係を指導員と築き上げて、今度はタヒチの島で、人口一万五千人全員とまた、素晴らしい関係を作るようになるだろう。この面白くて、楽しい真剣な尤氏長寿養生功を通じて、世界中の人々と楽しく面白い、良い人間関係を結べるように私は尽力して平和で楽しく面白い幸せな世界を作りたい。このブログを読む人にも、この流れに参加していただきたい。尤氏長寿養生功の氣功で培う氣は宇宙のエネルギーと同じで、その人の心によって、再生復活のエネルギーとなり、また破壊消滅のエネルギーともなる、まるで原子力エネルギーのように人の心と使い方によって、良い結果が生まれて、悪い結果ともなる。良因良果、悪因悪果である。仏教の教えの通り、良いことをすれば、良いことが待っている。悪い結果にはその原因がある。と言う子どもでも知る教えを行なえ無かったこの愚かな二人のマスターたちにはどんな結果が待ち受けているのであろうか?因果応報の理には誰も逆らえない。

みかけと中身

二人の愚かであつかましい離叛者が太田氣功道場から出たことを受けて、この恥の無い行為をして、何の良心も咎めない言動を彼らの未熟な心を映すホームページを読んだ後の私の印象は、中身の無い内容を教える自分をマスターと呼ぶ、その図々しさには呆れるばかりである。中身はサッパリキッパリと無いが、みかけは、事情を知らない者が読んだり、見たりしたら信じ込むようにプレゼンテーションだけは、私が感心するほど立派である。でも実力中身は無い。実力と中身が無いから、自分で自分をマスターと呼ぶしか無い。哀れな愚行を繰り返している。どんなに身を飾り、言葉で自分の穴を埋めようが、実力中身が無い事実を変えることは出来ない。このツッパリねえちゃんのキッパリ道場とアホの尤氏意拳の師範師たちを見るにつれ、みかけだけに時間とカネをかける人間であると思わざるを得ない。実力と中身に時間をかけずにみかけと外見をいかに上手く見せるかということに集中する。それだけは実力がある、と認めよう。しかし、中身が無いので、そのうわべだけのみかけはいづれ破綻する。どんなことも中身が表面に表れて来ることをこの愚かであつかましい二人のマスターたちはキッパリとサッパリと知っていない。知っていれば、こんな中学生でも知る道理を破ってこのような愚行を実行しないだろう。ものを知る者や本質を求める者、審美眼を持つ者はせせら笑って、みかけ、外見には見向きもしないだろう。中身と実力というものは、時間もお金もかかるものである。お金も使わない、時間が惜しい、では何も習えない。一生死ぬまで、中身の無い武術と瞑想をみかけだけで、道場を運営して、せいぜい笑われて醜い姿を晒すことである。

 

空海さん

空海は高知の海岸の洞窟で瞑想中に空にある星が飛んで来て、口の中に入った、と言われている。今回のタヒチ出張の際、山の頂上付近の家のバンガローに宿泊していた時に朝の三時頃に起きて、瞑想していたら空に大きな明るい星が出ていて、その下には珊瑚礁に海が見えている。こんな素晴らしい光景は日本では、見たことはない。今回は南十字星を見ることは無かったけども、金星が大きく明るく見えて眼下に珊瑚礁の海が広がる景色を眼前にしての瞑想は生まれて初めての経験で、その大きな星金星は私の口に入ることは無かったが、興奮しながら瞑想したのであった。こんな贅沢な瞑想の場所は他にはないだろう。ちなみに私が借りようとしている家は珊瑚礁の内海のすぐそばにあって、毎日海の間近で瞑想が出来るようになる。これも贅沢なことで、私はとてもラッキーな男であると思う。その家に鍼灸のオフィスを作り、治療テーブルを二台設置する予定である。すでに中古のテーブルを手配するように頼んである。地上の楽園に理想の太田氣功道場と鍼灸医院の開設は二千二十年には出来るようになっている。空海さん と同じような経験をさせてもらい、住居と鍼灸のオフィスまで、最高の場所に開設されることに今の時点で決まっていることに感謝の念でいっぱいである。三十年前にはタヒチに住むようになるとは思いもよらないことであった。人間の縁と氣のエネルギーの作用で影も形も無かったものが現実に目に見える形になって行くのを目の当たりにして、私は驚愕するばかりである。感謝の言葉しかない。タヒチに於いても、日本の道場生と築いたように良い人間関係を持とう。

伝統と秘技

私がアメリカのサンフランシスコで、失われかけていた意拳の後継者であるドクター尤老師が創立した尤氏長寿養生功を私が必死に習得したことによって日本にその特殊な氣功を持ち帰ってその氣功の生命を長らえ、その火勢を大きくする矢先にあの忌まわしい尤氏意拳とツッパリオンナのキッパリ道場によって勢いが妨げられているのであるが、カネと自己顕示欲への追及でしかない喫茶店のマスターたちを横目に尤氏長寿養生功の伝統と秘技は守られ、その伝承は今でも続いている。そして今ではタヒチに本拠地を移して世界に飛躍しようとしているのである。こんな理不尽な愚か者がどんなに虚勢を張っても、自分を自分でマスターと呼んでも、正統な伝統と秘技は守られ、正しい伝承は行われて行く。ハナクソのような武術と瞑想はいづれは集まる生徒たちが気づき見破られて、ニセ道場から去ることになる。現に、キッパリ のツッパリ総大将は尤氏意拳の道場から太田氣功道場に移籍して来たのであった。ホンモノを習っておきながら、ニセモノを教える、歪んだ心は正常な判断で正しい道を選べない。暗い生い立ちは歪んだ心を築いてしまう。