揺るがぬ心、揺るがぬ身体

健全な心に健全な肉体が宿ると言う言葉があるが、私に言わせれば、これは逆で順序としては肉体が先に来なければならない。目で分かり、鍛え易いのは身体であるからだ。、最初から心は鍛えられない。強い体幹、強い肉体、強い脚腰があって、強い揺るがぬ心ができる。口だけのヘナチョコな人間がいくらカッコつけても、どんな高僧が装っても身体がヒョロヒョロではそれは屁のつっぱりにもならない。私の経験では、強く揺るがぬ心は鍛えられた強い揺るがぬ身体、体幹、脚腰が必要である。そしてまた、自称、鍛えてチャンピオンになったと言う者が強い揺るがぬ心を持っているとは限らない。チャンピオンと言いながら、神経質にも爪を噛む癖のあるオトコを私は知っている。十分な瞑想も必要である。尤氏長寿養生功は強い脚腰、体幹、強い身体を作り、瞑想も基本訓練の大部分を占めて、揺るがぬ身体を先に作って、揺るがぬ心に到達する。氣功と言っても、フニャフニャ身体を緩めるだけの訓練ではなく、鉄人のような揺るがぬ身体を作り、その後に揺るがぬ心を作るのである。

氣功は科学である

現代の科学に比べれば、以前に、何の科学的な根拠も無いと言われた氣功は古代中国に於いては立派な科学であった。人間の科学技術が発達していなかった古代中国にあっては、原子や分子にあたるものが氣であったのであろう。感覚的に異常に敏感で発達していた者が人間の経絡に気づき、氣を発見して中国医学を築き上げた。私が西洋医学と融合した中国医学中医となって、氣功を考える時、氣功は立派な科学であって、予防医学と言えるものであると確信している。今の時代になって、予防医学と言う言葉を使うようになっているが、古代においてすでにそのコンセプトが存在していた。最新の医学の研究で東洋医学の科学性は証明されて、その根拠も解明されている。最新の医学研究 のレポートの理論と古代中国の理論は驚くほど似ている。同じことを言っている。私は何人もの患者が長年悩んでいた病いを初回の一回で即治させたことが何度もある。全て氣の成果と言える。私が触れずに人を投げた時に鼻で笑った自称科学者の大先生を私が立てなくしたことを自分の脚が弱かったと言って、氣でそんなことができることを認めようとしない。科学者のプライドが許さないようである。科学者が科学的であるとは限らない。科学は実験と観察を繰り返し、再現性を確立するものである。私は三十年のあいだ、実験と観察を重ねて初めて会った者を 投げられる再現性を確認確立している。私が催眠と氣功は共有する部分があると言うと、氣功は催眠だと言い始める。一体どちらが科学者であるかわからなくなって来る。

東北に大きな波を

山形講習会が、八月三十一日土曜日に開催されることになった。ずっと前から東北に尤氏長寿養生功の拠点を作りたかった私は東北出身である。東北の冬は寒く厳しい。私の幼少期には栄養が足りずに毎冬足がしもやけになった。東北人は根性があって、粘り強くものごとを習うに諦めない。そんな東北には私は特別な思い入れがある。であるから、できるだけの東北人に初の東北での講習会に参加していただきたい。東北六県の各県に氣功学校と支部を置きたい。尤氏長寿養生功に興味のある、治療師、鍼灸師合気道愛好家、太極拳士、武道家はこぞってハ月三十一日の山形講習会に集結してもらいたい。来年タヒチに移住する私との氣の交流の機会はこれから少なくなる。タヒチに行ったならば、 年に一、二回の講習会でしか交流は出来なくなる。

パワーの源

タンパク質が足りないよ、とか言ってパワーの源を肉を余り食べない日本人を冷やかしているキャッチコピーであるが、もっと根源的なパワーは氣である。これから私には遠大で壮大な計画がある。フランスの芸術家たちのパワーを増す為に氣を紹介する。日本の芸能人の何人かは私との氣の交流の後に芸術の才能がいっぺんに開いてプロの画家となったり、プロの格闘家となった者がいる。フランスの芸術家たちに氣功の瞑想を教えたら、才能がもっと花開くことになると私は考えている。今までの私の幅広い経験がさまざまな将来の夢が頭に浮かんでくるのを助けてくれる。古代中国の哲学と技術が現代の人間に大きな影響を与えて国と人種の壁を越えてインターナショナルな役割を果たす。国際的な仕事を目指す大学で学び、渡米して、世界各国で尤氏長寿養生功のワザを試して、タヒチに於いて、生涯の友人を作った。パワフルに私はタヒチニューカレドニア、フランスへとパワーの源を、あんたたちには氣が足りないよ、のキャッチコピーで尤氏長寿養生功を弘めて行きたい。

武術の理想

私が若い頃に夢中になった武術武道では試合形式の競争は無く、簡単な瞑想もありはしたが、尤氏長寿養生功に比べれば不十分なものだった。雰囲気だけでは仏教を装っていたが、私の武術の理想を体現していたのは、尤氏長寿養生功だけである。究極の武術武道では、勝ち負けを追及するものではないことはもちろん、身体の内側を鍛えて心の平安を求め、周りの人間と共生する。毎日の瞑想が日課となって、生活の一部になる。武術武道そのものが生きる糧となり、手を一閃すれば、巨人であっても、宙を舞う。かと言って奢り高ぶらない。冗談が分かり、見知らぬ人と友人になる。倹約質素を旨として、人生を楽しむ。武術武道を競争の域から抜け出せぬ者は、まだまだ未熟で尤氏長寿養生功を訓練するレベルにはならない。タヒチでも、日本でも、巨人を私が氣で投げたからと言って、すぐに実戦で使えないか?と聞いて来る者があって、まるで試合形式において、近道の魔法があるかのごとくに思うのである。私が巨人を投げる場合は氣功のルールを守ってもらうのであるから私が勝って当たり前である。巨人のチカラには私が敵うはずもない。巨人を投げられるほどの氣のチカラを養成するまでにどれほどの体幹レーニングとどれだけの瞑想の時間が必要なのであろう。この訓練の時間の長さや薄紙を一枚、一枚貼るような作業の後に見えて来る世界がある。その心の揺るがない世界が武術武道の理想なのである。どちらが強いかではない、絶対平和、共存共生の世界である。

不老不死とアンチエージング

氣功は古代中国の皇帝の寿命を伸ばす、不老不死の方法手段として研究考案されたモノであった。不老不死もアンチエージングも同じことで、人間の考えることは変わらない。太古の中国であっても、近代の最新医学の発達した現在の米国であっても考え方は同じで少しも変わらない。抗加齢に効果のある抗酸化物質は健康長寿に関わるモノであるが、古代中国では、氣を訓練することで長命になると信じられていた。しかし、日本だけでなく、世界的に超高齢社会になっている現在では、ただ長生きするだけでは意味のない不十分な健康長寿であろう。百歳を越えても、その老後が楽しく嬉しいものでなくてはつまらない。そのような時代に尤氏長寿養生功は一石を投じるだろうと思われる。何故ならば、食事や運動では不十分であると医学者は言っているのである。何が必要かと言えば、メンタルコントロールが必要とされている。瞑想は尤氏長寿養生功の基礎訓練の大部分を占めている。メンタルコントロールは元より、身体に及ぼす影響はとてつもなく大きい。良く制御された心、精神にこそ良き肉体は宿る。東洋の古代哲学は西洋の最新医学と融合合体して、健康長寿に余りある大きな影響を与えている。勉強もせずに東洋医学を陳腐で古いモノとしてただ排除すること無く、東洋医学にも目を向けて勉強して良い時代になっている。

朋友遠方より来たる

去年、タヒチを訪れて、宿泊先に自宅の隣のバンガローを提供してくれて、すっかり家族同様な仲となった道場生が来月初めに来日する。初め、フランス人とは距離感を感じていた私は彼と朝方共に瞑想することを繰り返すうちにすっかり心が打ち解けて、大の仲良しとなった。優しいポリネシアンの奥さん、天使のような子供達、彼の家は小さな山のてっぺんにあり、頂上付近には滝がある。家のプールの水は滝から引いて、水道料金は無料である。高校の数学の先生で、真面目で、生徒のことをいつも考える愛溢れるナイスガイである。ナチュラリストで海でのウインドサーフィンが大好きで毎日外で過ごしている。一度滝のところまで行こうと誘われているが、私の脚では辿りつけないだろう。タヒチに行く前に脚の状態を良くしてから滝に行って、一緒に瞑想したいと思っている。来日したら道場で訓練して、日本を案内する予定で新幹線で京都まで行って寺社巡りを一緒にしたいとも考えている。タヒチからは私の友人たちがオリンピックの観戦に来る予定で、かなりの数のタヒチアンが来日するだろう。日本の作る製品に絶大な信頼を寄せて、日本びいきになっているようだ。淡路島くらいの島だから、バカンスの時には一か月くらいの休みを取って狭い島を出る。日本人には羨ましい生活スタイルだろう。最近良く想うのだが、日本人の心、義理人情などが日本人には無くなって、外国の、例えばこのタヒチに住む人達がそんな日本人が失くしてしまった心を持っているのだ。ギスギスした、ケツをまくって許可も無い実力も無い者が自分の道場を開いて、自分のボロとほころびを隠すようにして自称師範と名乗って社会に目くらましの術をかけて、道場の運営をする行為を見た私は今、タヒチの人々は人間として、彼らに比べれば、眩しく、輝いて見えるのである。風光明媚で住む島が小さいから人情が日本人のそれとは比べようが無いと言うかもしれないが、そんなことを言い訳にしては日本人がすたる、というものである。どうも最近、義理や人情が薄くなっているように思うのは、私の歳のせいだろうか?私はまるで自分の家族が日本に来るようで嬉しくて、嬉しくて、居ても立ってもいられない。当然、悪い脚で、成田空港まで迎えに行くつもりでいる。また嬉しからずや!