奇跡
私が今なぜこんなにも人生を楽しみ、
嬉しく、笑ってばかりいて、幸せなのだろうと思い、思考を重ねてみた。
今月は私の亡き妻の命月になる。
本当ならば、日本に一緒に帰国して
この幸せを二人で噛み締めたのに、と
残念で残念でしょうがない。こんなにも笑って過ごす、幸せな人生が待っているとは思ってもみなかった。これは奇跡
だろうと、考えた。きっかけはいつも言う尤氏長寿養生功との出会いだった。その前に知り合いがこんな不思議なものがある、と言って誘われなければ、私が
迷ってしまって、時間を作って行ってなければ
今のこの幸せは無かった。この時のことから今までの流れをひとつひとつ思い起こして考えてみた。そうである。小さな
出来事は奇跡であったのだ。ひとつひとつの小さな、ほんとは小さくないのであるが、奇跡の積み重ねが連続して起こる
奇跡的な出来事が今の私を作り上げていたのである。そこから発展した出会い、
人間関係がさらなる奇跡を生んで今に至る。何ひとつ 欠けてもいけない。小さな駒を積み上げた頂点に私が今いる。
そこで私は気づいた。今の私の幸せは
奇跡の連続の結果だと。生まれてくること自体が私には、奇跡であった。そんな中で、
入り混じる抑圧や死ぬような状況をくぐり抜けて今に至ること自体が奇跡であった。脳梗塞、心筋梗塞でICU 集中治療室に入って、他の患者はみんなが死んで、私だけが
生き残り、九死に一生を得て今に至る。
これを奇跡と言わずに何と言えば良いのだろうか?車椅子に乗って帰国したのは
三年前で、駅から姉の家まで歩いている内に転んで救急車が来て病院まで運ばれた。脳梗塞から十年以上経ってクスリも辞めていたから今度は心筋梗塞で病院に運ばれてまた助かった。医者から
早かったから助けられた、死ぬところでした。と言われた。この病気のことは大きな奇跡であったが小さな奇跡の連続
積み重ねが大きな奇跡を生んでいる。
こうなると、もう感謝しかない。何回も言ったが、このチカラを生み出したのは
尤氏長寿養生功のお陰なのだ。
そして今これほどに幸せになっている。
この実体験をもとに勇気、愛、幸せを
テーマに太田氣功道場の運営に当たっている。最近、また奇跡が起こっている。
怪我した左脚が動き始めた。三年前は真剣に手術を考えたが、リハビリを毎日、徹底的に頑張ったせいなのか、大きく
脚を組めるようになって、顔の近くに
足先を持って来れるようになった。
また奇跡が起きている。人間の身体は
大したものだ。折った骨が砕け散って
跡形もない、レントゲンには映らぬほどの骨折が、一か月くらいで二本の骨が
再生して生えてくる。元どおりにはならないが、いびつながらも原形をとどめて
硬い骨が今はある。奇跡奇跡の連続で、
今またさらなる奇跡が生まれようとしている。ひょっとして杖が無くとも歩けるかも、ひょっとしてあぐらをかいて瞑想
出来るかもしれないと大きな希望が生まれて来る。希望がないと人間は生きていけない。希望が生まれて、もっと幸せになれる。顔に笑みは溢れて、そんな笑った顔で町を歩くと変に思われる。
鏡を見て私の顔の相まで変わった。
奇跡だ。私の人生は奇跡であった。