自得

尤氏長寿養生功の勁空勁の極意とか秘訣というものを、ある者たちは全て師匠が教えてくれる、与えてくれるものであると思うらしい。そんな簡単なものでは無い。私は師匠の師母からは相手をこういうように投げるとか、このようにする、などの教授を受けたことは一度も無い。師母のやっていることをジッと見て、良く考えて、見よう見まねで道場内の先輩同輩を練習台実験台にして少しづつ出来るようになって、その秘密をパズルを解くようにして、私の場合は海外に出て、現地の武道家やスポーツ選手を相手に勁空勁を試していたのであった。時には私の倍もあろうかと思うような者を相手にした。時には相手の頭が私の鼻を直撃して鼻血が止まらぬ時もあった。そんな風に自分で自得していったのである。私が東京の道場を任せた者は勁空勁のやり方を習いたがり、テレビに出て自分を売りたかったらしい。あまりにせがまれて、テレビ出演の直前に誰でも出来る私が開発した勁空勁をチョット教えたところ、全ての奥義を習った、と言い始めたのであった。早く自分が私にとって代わりたかったようだ。このニセモノ師範は基礎の土台が出来ていないので、自得することなど、出来なかった。自得するには、充分な基礎訓練が必要である。私は何遍も言う通り、二十年で七百二十万回の震脚ジャンプを敢行した。しかも直接師母との一対一の氣の交流を毎日二回の二十年である。どれほどの訓練の積み重ねであったか、私の身体が自分でもハッキリと分かるほどの変化を感じていた。この充分な基礎があって、自得することが可能になるのである。安易に勁空勁の仕方を教えてもらう、という考え、やり方、は一時はハナクソ程度の勁空勁は出来るかもしれないが、その先、高度に熟練したワザには進化を遂げることはないだろう。私の氣が今、深化と進化の両方を遂げているのは私の基礎が充分なことによるものである。七百二十万回の震脚に四万四千四百四十時間の瞑想は私が唯一この氣功で自慢出来るものである。それがあって、海外での武者修行がプラスされて、今の私の技術があるのだ。武術においては、戦い方までは師匠に教わることはない。基礎を作ってもらい、心の在り方を習うことに尽きる。充分な基礎が出来なかった者は充分な勁空勁を出来ない。応用がきかない。これはどんな世界でも同じである。芸術、瞑想、武術、氣功、東洋医学、などは自得で自分の世界を作り、師匠の教えを発展させる、というものである。基礎を作ってもらい、生き方を学ぶが、生きる人生は自分の責任で、師匠が弟子の人生を生きる訳では無い。基礎までが師匠との関係で、その後は自得するのである。