見えるもの、見えないもの

オリンピックの選手たちは、勝ちと負けの別れ道、分岐点は精神の強さであると言われている。これは何もアスリートの世界だけに限らない。どんな世界でもそうであろう。芸術の世界でも同様にどんなにテクニックや技術を学んでもそのワザは目に見えるものであって、人間は

何も目に見えるものだけに感動する訳ではない。形に現れる内側の精神と心の世界に

感動するのである。究極のところに於いては、見えないものが見えるものを支配する。見えるものに心を奪われ、即物的なものに執着心を持つ者に芸術、特に医術、武術を語る資格は無い。カネやオンナやクルマに己れの価値観を見いだして

訓練を怠る者に明日は無い。一旦目に映るものから離れ、目に見えないものに

心を向ける作業が必要だ。瞑想は目を閉じて自分の心の中を見つめて普段気づかぬものに神経を集中すると、見えなかったことが感覚的に存在することが分かって来る。宇宙を拡大しているチカラは目に見えない。人間活動も究極的には目に見えないものが目に見えるものを支配する。宇宙も人体も同じことである。宇宙に起こることは人体にも起こる。氣こそが人体を制御するチカラである。氣が

生命を生み、死を支配する。目に見えるものだけに執着心を持って人生を生きる者は心が無い。カネオンナクルマに心奪われることは盲目になって人生を送るようなものである。気力、哲学、宗教、友情や愛情などの目に見えないものは人生を豊かにしてくれる。私も目に見えないものに引かれてもうすぐタヒチに新天地を求めて、人生をもっと楽しむのである。気力は以前より充実して、膝の手術が待ち遠しい。タヒチでは目に見えない氣で目に見えるもの、社会に影響を与えるのである。