信用と誠意

武術と瞑想、伝統のワザや文化芸術には、誠意と信用が不可欠だ。私が半世紀に渡って、関わった武術の世界でも、今まで見たこともない、誠意と信用が無い者がいる。尤氏意拳明光武道の自称、宗家創始総師範、と自分を自分で呼ぶオトコを私は1994年の神戸の地震の時から知っているが、このオトコほど誠意と信用が無い者を見たことがない。二十五年もこんなオトコと行動を共にするのは苦痛である。特にカネがらみの問題を起こして何の誠意がない。借用書に私の名前を書き、私のハンコを押す。こんなことをされたら、そんなオトコの信用は地に堕ちるだろう。それでも気にはしていないようである。社会を生きるに信用と誠意は要らないということか?もう一人、キッパリ道場の山地 花緒里というオンナは誠意がない、にも関わらず、チベット密教から来る我々尤氏長寿養生功の瞑想、座禅だけ教えている。立禅と氣功武術の勁空勁を学ぶところまで修行出来なかったので、簡単で、女でも出来る初歩の瞑想でお茶を濁して、雰囲気だけ作ってカネを取る。尤氏意拳の総師範と同じように誠意無く、人には誠意を見せろ!と迫り、本人は誠意が無い。信用と誠意の無い者がそれぞれ武術と瞑想を教えている。そして、両者共に本名を隠していたのであった。生い立ちを隠す為なのか、とにかく、自分に都合悪いことは何も言わない。誠意と信用が無い者が教員免許を取得出来るのだろうか?信用と誠意が無い者が日本拳法のチャンピオンと言えるのであろうか?そんな者に尤氏と言う名前を使って欲しくはない。信用と誠意のない者にチベット密教の瞑想を利用して欲しくはない。生い立ちのせいで歪んだ心は人前で目立ちたがり、他人を踏みつけても、その暗い目的を達成しようとする。巻き込まれた太田氣功道場にとって、私と指導員にとって迷惑である。自分一人が生きていくのに一体何人を巻き込み、迷惑をかけねばならないのか?信用が無いならば、少なくとも誠意だけでも見せたらどうか?誠意と信用を回復したら、私はこの情け無い両者の団体を認めよう。でも、心の歪みを取ることは至難のワザで、この者たちを知る私には信用と誠意を取り戻す努力など、どうでも良いと思う者たちなので、その可能性は無い。