奇跡の復活

これをデイケアの施設で書いている。北海道講習会で初回のたった一回の整体を受けた後に自分でも懸命にリハビリに取り組んだところ、屈伸を深く出来て膝を曲げられるようになり、歩く歩幅が増えて階段を左脚で登れるようになっている。左脚の筋肉が太くなって、筋肉が割れている。以前に比べて、格段に改善した状態になった。杖無しでも歩ける日が来るかもしれない。奇跡の復活である。嬉しい限りである。タヒチに行くまであと一ヶ月ある。それまでは毎日筋肉に負荷をかけてリハビリだ。うっとうしいことはあるが、そんな問題はしばらく放って置いて脚と腕のリハビリに専念しよう。今でも体調はこれ以上無い位に良い状態である。私の一ヶ月のリハビリは常人の一年に匹敵するに違いない。手術の化膿のあった傷口はしっかり塞がって、今は風呂にも入っている。日々是好日、

軽蔑

私は今、二人の離反者の師範師を私の道場から出して、失望と怒りと驚きでいっぱいで毎回糾弾の記事を書いている。武術と瞑想を私から習いに来る時には虫も殺さぬような見かけだけは立派な若者と、見かけだけの真面目なオンナ教師、ニューヨーク帰りのモデルを演じて、結局、それぞれ、尤氏意拳明光武道という前代未聞のニセ武術団体を作り、見かけだけ立派な教師はキッパリ道場というチカラのないニセ瞑想道場で何を教えるのやら、私には呆れ果てる所業で、それぞれに私のブログに書く記事の内容が気になるようで、キッパリ道場の先生は私が誹謗中傷している、と言っていたようだが、学校の教師の免許を持っている割には、何も分かってない。それぞれにオス孔雀、女狐と言っていたのは誹謗中傷では無い。あれは、あまりにひどい人間性でそれぞれした行為に対して、私の軽蔑の気持ちを表したものであった。それが誹謗中傷と言うならば何とでも言え!私は私と道場生、特に指導員の純粋で、真面目に、太田氣功道場を信じて十年以上の研鑽と精進を重ねて来た私の同士、仲間の気持ちを代弁しただけである。名誉毀損で訴えると言うならば訴えよ!訴えたいと思うのは私の方である。指導員のクラスにゴリ押しで入って来て、退会する時にはサッサと逃げるように出て行く。この態度は何なのだ。少なくとも教師のする行動では無いだろう。自分の胸にあるひと言で、後になって全ての事実が明らかになる。私の言っていることが気になるのならば、直接太田氣功道場に来て文句を言いに来たらどうだ。顔も合わせられないほどに、自分でもひどいことをした、と思っているから、正々堂々とした行動が出来ないのでは無いか?私が間違っているならば、もう一度誠意を見せてください、と言って見ろ!今度は私が言いたい。お前の誠意は何処にあるのか?と。尤氏意拳の大総師範もまだ、借金を返さずに逃げているのである。追及する者はもう一人増えて、私のブログを書く時間は増えているこの頃である。

安易な破壊と流用

尤氏長寿養生功を真似して、アイデアを盗んで自分の我欲の為に道場を開く。こういった行為は、尤氏長寿養生功を破壊しようとする、そして、尤氏長寿養生功の持つ哲学やシステムを流用する。ということは、安易な心で尤氏長寿養生功の破壊と流用をもたらし、その質とレベルを著しく、低めて、尤氏長寿養生功を引きおろす働きをすることをこの二人の師範師は気づいてないようだ。私には大変迷惑なことである。自分のうす汚れた目立ちたい自己顕示欲に糊口をしのぐ金銭欲で、安易にニセ道場を開けば、レベルの低い者が集まり、そのレベルがさらに低くなって尤氏長寿養生功はこんなものなのか、という印象を社会に与えることになる。自分の行為を恥にも思わない。この迷惑千万な非常に安易で、簡単に考える者たちが同じ社会に居ることは危険で社会の為にはならない。私には尤氏長寿養生功の質のレベルをキープする責任がある。この師範師、総大将総師範にはレベルの質の高さなどは、それが何なのだ  !という態度で、自分が団体の長であることがより大事なことなのだ、というまたもや利己的な考えで生きていく。こんな者たちには尤氏長寿養生功は勿体無いものであったのだ。繊細で、人類の智慧が詰まった立派な芸術は心の卑しい者たちには理解出来ない。

二度目の人生と挑戦

私が尤氏長寿養生功を学び始めた時の私の年齢は三十七歳であった。一度目の結婚は失敗し、少林寺拳法の夢破れ、それでもカリフォルニア州公認の中医のライセンスを取得して、二度目の人生をこの氣功をマスターすることによって、私の二度目の人生の拠り所にしたかったのであった。尤氏長寿養生功は氣を育てるにつれて、経絡が以前より太くなって、経絡の中を通る氣の量が経絡が太くなった分、多くなり、エネルギーが絶対的に巨大になるのだ。あたかも、六十ワットの電球が百二十ワットになって暗闇を照らすようなものである。エネルギーの出力が比べられないほどに大きくなって日常の生活が変わって来る。そして、瞑想をするので、生活の質は向上して、健康になる。全てのことが好転して来る。私は日本のテレビ局に勝手に紹介されて、私の氣功道場には三百人以上集まって、二度目の幸せな結婚も出来たのであった。私の経験から、私は少し年齢のいった年配の中年層にこの氣功を勧めている。なぜなら、二人の離反者が名誉欲とカネへの欲で修行半ばでケツをまくって、勝手に自分の道場を開いてしまう、人生の哲学も確立していない苦い経験も無い心の修養も無い者たちにはこの氣功の妙味は理解出来ない。ただ、私の真似か、よほどの自分への過信で自分の独立しか考えられない者たちである。二度目の人生で、次の挑戦をしてみたい志しがある者にぴったりな修練方法なのだ。私との氣の交流後に人生を変えるほどの潜在能力を開花させた者は多い。

極める

私が武道武術に求めていたものは究極の世界である。ワザを極め、瞑想を極め、武道の哲学を極めて宇宙の真理にまで到達する、私が生まれて死ぬまでの間にこの作業、探求が出来れば、以って冥すべし、という気概であった。究極の武術とは?触らずに相手を制することである。すなわち、空勁であろう。瞑想の究極とは?すなわち、瞑想をしていても、相手が氣を感じるほどに氣を高めることであろう。武道武術の哲学の究極とは?殺人のワザから活人のワザに転換して絶対平和の世界を目指すことであろう。そしてそれは宇宙のエネルギーと我々の作り上げた氣が融合して、氣、エネルギーの正体を解明することである。今述べた全てのことは尤氏長寿養生功を訓練することによって完成することが出来る。と私は絶対の確信を持って言える。焦って小金を稼ぐ為に、自分の目立ちたいという功名心の為に武術と瞑想の道場を開いた恥を知らぬ離反者たちはこんな極めるという究極の世界への探究心などあっただろうか?頭に浮かんだことは己れの我欲、自己顕示欲と金銭欲だけであっただろう。キッパリ道場、尤氏意拳の「師範師」たちは極めたようなことをホームページやブログに書いているだろうが、騙されてはいけない。その実、教える資格も実力も持ってはいないのだ。一時期師匠であった私が言うのである。

生い立ち

生い立ちの環境に負けて、事件を起こす者は多い。私の生い立ちも貧困無学の母親に育てられて、母親は父親への恨みを家族で一番小さな私に今風に言えば、虐待をされて、私は育ったのである。家族の劣悪な状況を私は毎日眺めて、一日も早く、故郷を離れて東京の大学に通うことを夢見て、小学、中学、高校とあまり好きでもない学業に専念して成績を学校の上位にいつもつけるようにして、東京行きの公然の理由としたかったのであった。病気がちの私は運動を医者から禁じられていたので、大学に入ったら身体を鍛える意味で、武道を必ずしようと思っていた。入学後、少林寺拳法を毎日練習して、道着を着て冬も夏もそれで過ごした。幸い、寮がキャンパス内にあったので、都合が良かった。アメリカのバークレー大学の少林寺拳法支部長になる話が出て、私に白羽の矢が立って、アメリカに行くことになる。貧困の家庭に生まれた私はアメリカでも、苦労の連続であったが、武道に私の生き甲斐を感じていたので生きる上で、人に迷惑をかけることなどはしなかった。生い立ちの環境に負けた者が二人私の道場から離反して道場を開いている状況を見る時にはおそらくは、私の生い立ちに比べれば、ずっとましな家庭環境にあったと思うのだが、家庭環境に負けて太田氣功道場を欺き、ウソをつくのはどういうことなのか?大学在学中に入学金を友人の父親に借りたお金を返す為に卵一個を三日間の食事にしたこともあった。当然、授業料を払えない私は中退となった。とにかく私はウソと虚偽で人生を送るなどはしなかった。考えたことも無い。生い立ちの反動で有名になりたい、目立ちたいという心理は理解出来るが、ウソと虚偽でそんなことをすることとは別問題である。生い立ちの反動で目立ちたいなら、自分のチカラで、ルールを守って目立ったら、誰にも文句は言われないだろう。

独学

私の勁空勁は独学である、と言って良い。師母は道場生、特に私には何も教え無かった。何も言わない。勁空勁は秘技中の秘技で、特にそれに関しては勝手に出来るようになれ、という態度であった。私が通氣を受ける前から通氣の先輩を勁空勁で投げ飛ばした時には、私が投げた先輩を大声で叱っていたので、あまり師母の前では私の勁空勁を見せなくなった。私のチカラを隠したのである。それでも、興味本位で私に挑戦する者はたくさんいて、私も黙っているタイプでは無いから、丁度良い腕試しと思って、師母が見ていても、挑戦を受けた時には相手を投げ飛ばしていたのであった。海外に行って、武者修行と言って、盛んに勁空勁を試して自分のチカラとワザを磨いたのである。だから、私の勁空勁にはお金がかかっている。全て独学ではあるが、師母の勁空勁を見て真似して覚えていった。いつも糾弾する尤氏意拳のオトコには手を取り足をとって勁空勁を教えてはしまったが、私に比べれば、逆説的な言い方になるが、私が教えれば、それは邪魔になって、私のようにはワザが伸びること無く、自由な発想は出来ないはずである。失敗の連続から学ぶことは多い。それに私は日本人以外に勁空勁を使った経験が豊富で、私の経験値を持つ者は誰もいないだろう。独学は武術において、経験を積む良い修練の機会と手段となる。オンブにダッコに慣れた者は良い武術家にはなれない。勁空勁だけに焦点を当てて、チョット習った勁空勁を秘技を習ったと勘違いするアホなオトコには独学の妙味は理解出来ない。