行為と心

私も七十歳にあと一年になるほど歳はとったけれども、年齢と精神、心は同じでは無い、とますます感じるようになっている。そして、これだけ長く生きていると社会の中でも同じことが起きている。と思うようになった。職業と精神、心が同じでは無い。立派な身なりや服装などで着飾って外見に囚われてその人物を見ていると、

良くだまされる。と思うようになった。高潔な心と職業が一致しないのは政治家を見れば納得するだろう。口だけがどれほどのきれいごとを並べても、たった一度のセッパ詰まった時の行動、行為が醜い時にその人物の心が表に出る。普段からボロをまとい、粗食をしていても、高潔な心を持って行動する人もいる。この歳になるまで、さまざまな経験を積まされた私は道場に集まる道場生の職業や心がさまざまなマッチングであるのに気づき、観察を続けているのであるが、歳をとればとるほど、見かけと身なりと口のうまさに比べて、心は身なりと見かけと口のうまさに関係は無い、ことに気づかされている。人生を歩んで、大切なことは、理想の職業と云うモノは無く、職種、身なり、見かけでは判断出来ない。僧侶が殺人を犯して警察官がカネを盗み取る行為をする。職業が行為と一致しない極端な例である。他にも、もっと例を挙げると出てくるだろう。周りを良く見渡して見れば、いくらでも出てくるだろう。大事なモノは心であった。人生において、何を成すかは職業では無い。経験と心が大事なのだ、と思うこの頃である。どれだけ目に見えるカネとモノを持つのかは、問題では無い。どんな心を持ち、今この現在に於いて、何をしているか?というシンプルな生き方が、歳をとればとるほど問題にされるということである。見えることと見えない心、精神は一致しない。心、精神がより大事である。