瞑想の法則 変性意識状態

長年瞑想を続けていると、瞑想には法則があると思われる。初めのうちは、何も考えるな、と言われるとますます頭の中に次から次へと走馬灯のように妄想が現れて、実にくだらない、日常のどうでも良い、今晩は何を食べようとか、銀行の残高が足りないとか、今この時に浮かばなくても良いことが出て来てしまうのであった。もう少し日が経つと、今度は、こんなことをしていて無駄な時間を使っていないか、何の益があるのだろうか?と言う不埒な疑念が湧いて来た。そして、ついに諦めて、ただ立つ為に立つ!立っていれば良いと開き直りの境地となり、ひたすら黙々と瞑想をしたものである。私は瞑想のことについて何の説明も無いまま、ただ立て!と言われて初めから一時間立っていたから、ある日突然一時間立ったので、私も含めて一般人の初心者と同じ自然な反応であったと考えられる。瞑想を楽しむなどということにはほど遠い。しかし、ある日を境に心境はガラリと変わる。立って瞑想している時にまるで幻覚を見るように感覚的に私の身体が急に大きくなり始めてついには頭、両腕、背中、肩などが壁に当たって練習場所の車のガレージいっぱいに身体は巨人のように大きくなって、その部屋が子どものオモチャの箱の大きさになってしまった。小さな箱に入っているようで窮屈だ。また次の時にはチビた鉛筆のように身体は小人のようにさらにもっと小さく、小さな鉛筆のサイズになった。そんな奇妙な感覚の回数はドンドン増えて行く。しかし、もう一度同じ経験をしようとして瞑想すると、二度と同じことは起きない。また今度はまるでエレベーターに乗ったように上にドンドン上昇して行く。次の時には地球の中心に向かって下降する。何処まで登って降りるのか分からない。怖くなって目を開けると、ただ立っていただけだった。他の先輩同輩に聞いてみると、色が見えていた。こうなった。ああなった。と言って、人それぞれに違う体験をしているようだ。この変性意識状態になった時から瞑想への取り組み方が変わった。瞑想が面白くなっていた。消極的な関わり方から積極的なそれへと完全に変化した。瞑想の後の達成感に加え、汗をビッショリかくようになり、精神は落ち着いた。身体は相撲取りのように脚は太く、上半身特に脳がスッキリして下半身は重く強く、上半身は軽くて自由自在であった。こうなった後に瞑想の最中に急に恍惚感を得て、多幸感があり、このままジッとしていたい、動きたくても動けなくなった。あと何時間でもこのポーズを取っていられると思った。今でも覚えている。微動だにしない。瞑想のゴールがこの心境なのだ、と悟った。この境地を得る為に瞑想すると、氣は自然に身体の中から外に出てくる。脳波がβ波からアルファー波へとそしてシータ波に変わる。短く大きい波長から波長の長いものについにはほとんど上下の無い波長シータ波へと変わって行く。トゲトゲしいものから丸くてユックリなものに昇華される。この境地さえあれば、移ろいゆくものスグ滅びゆくことなどには興味無くなって瞑想とこの境地さえあれば、人間は幸せになれると確信するようになった。それ以来、瞑想は欠かしたことは無い。1987年からだから、32年になるだろう。32年の月日の瞑想は決して長くない。師母は70年間も弾腿と言う型をしていたと言うから、瞑想も七十年していたに違いない。師母に比べれば、私など、まだ小僧で、ヒヨッコなのだ。