欲望

何回もこのテーマについては述べているのであるが、尤氏長寿養生功を少し学んで、すぐに教え始める者の欲望は浅はかな上に醜い、己れの私的な我欲から来るものであって、どんなに綺麗な言葉を使って、言い訳をしようが、愚かで醜い己れの行為を正当化することは出来ない。自分の愚かな行為を恥じることも無い。欲望には大きく分けて、二つに分かれている。一つは己れの私欲、もう一つは公的な欲望で、人の為、人類に役立つ欲望で、自分一人の自己顕示欲で、社会に認められたい、テレビに出たいなどの目立ちたい、という自分の心の奥底に潜む、黒い、他人には公言出来ない暗闇の中の幼いときから、持っているトラウマやコンプレックスの裏返しの有名になってやろう、との感心しない個人的願望は、時として、愚か者はどんな手段と方法を使っても、手に入れようとする。尤氏意拳の総師範とキッパリ道場の総大将はこのタイプであろう。不正な方法で手に入れた道場はどんな上手い言葉で、自分を飾ろうが、その武術と瞑想が発展して社会に認められることなど、期待する方が間違っている。正当な方法で、師匠である私に認められたチカラで開設した道場でない限りは、崩壊の一途をたどる運命にある。私の太田氣功道場を見よ、私のワザとチカラは進化を遂げて、以前私が帰国直後のワザとチカラを超えて今があり、新規の指導員と道場生が四方より集まり来たり、道場の内容が充実して、講習会の参加者が増えて勁空勁の成功率は百パーセントになっている。このように基本、基礎訓練を私の師匠である師母と一対一で行なった修行がきちんと満業となった場合にワザとチカラは進化して、私が自慢する指導員と道場生に恵まれるのである。己れの醜い欲にかられて盗むように自分勝手に付けた名称の総師範総大将は、すぐにその実力は世に知られて、道場もポシャる運命にある。因果応報の理は世に存在する。良因良果、悪因悪果となる。武術の大家と瞑想の大家ならば、因果応報の理はすでに理解して行動しているだろう。まさか悪因悪果となる醜い欲まみれの行動など、達人、ホンモノの大家はしない筈である。深く瞑想して、その道の奥義を極めた武術家とホンモノの瞑想の大家はそんな悪いことをすることはない。深く瞑想する大家は欲望をコントロール出来るのである。