天職

人生の中で、何かの縁で自分と関わりのあるものを見つけて、師匠を持ち、生き甲斐となって、ついに自分の職業となる。こんなことを天職と言うのであろうか?神から与えられた天命がついに天職となる。私の場合もそうであった。別に初めから氣功を教えて自分の職業としようとして習い始めた訳ではなかった。私が教えた者の中には、初めから野心を持って習おうとするので練習にも打算がある。全身全霊では練習に打ち込めない。ドクター尤老師はいつも練習の時には全身的、と言う言葉を使って訓練を授けていた。私にとって、尤氏長寿養生功はついに私の理想の武術氣功に巡り会ったと言う思いで全身全霊で取り組んだ。師母の最晩年は打算の無い弟子にこの氣功の教授をしたい気持ちが強かったと思われる。師母の望みに私の計算打算の無い、私の純粋な興味と何としても死ぬまでにこの勁空勁の秘技を自分のものにしたいと言う執念がぴったり一致して三十年のあいだ、私の興味と情熱は消えることは無かったのである。私の仕事はそっちのけ、自分の生活設計など考える余裕もなく、練習に打ち込んだ。例え、練習の時に倒れて死んだとしても以って冥すべし、と言う覚悟で腹をくくっていた。死んでも本望だった。その甲斐あって、ついに通氣となって日本での教授を許され、師母との別れの時には純金の指輪と写真を渡されてお墨付きの代わりとし、日本で教える時は習った系統を明らかにしてドクター尤老師と師母の名を名乗って私の師匠が誰であったかを伝えよ!と言われたのであった。私欲無くしてこの特殊で稀に見る氣功が私の仕事となった。その職業は私と師母の魂のこもった天職なのだ。私と私の道場生を裏切った者たちのカネ儲けが目的のただの仕事,職業では無い。