心の豊かさ

武術武道の大目的は、少なくとも、日本人が目指すべきことは、私は心の豊かさを持つことにあると思っている。これは私が五十年、半世紀の長きに渡って武術武道に携わり、最後に得た結論である。勝った、負けたの勝敗にこだわり、いい年してもあいつは弱い、俺は強い、と言う低レベルな武術武道をやっているアホな者もいる。何の為に武術武道の修行をするのか考えたことすらないであろう。尤氏長寿養生功中国武術から派生した氣功武術ではあるが、私は三十年間師母に師事して尤氏長寿養生功はその瞑想と健康に役立つ軽い運動を通して人類に貢献する内容を保持していると確信した。健康長寿になる以外に人間の潜在能力を開発できることを私は発見したのである。人間の内在する秘められた能力に気づきもせずに一生を終える者も数多くいるに違いない。こんな人間の能力を埋もれさすのはもったいない。カネを欲しがり、前代未聞の不祥事を起こした自称武術家もいるが、心の豊かさは開発出来なかったらしい。心の豊かな者はカネは無くとも、他人のカネに手を出すことはない。尤氏長寿養生功を習得して教授する立場になって、私の心はさらに豊かになっている。誰も出来ない勁空勁が出来ることは氣をたくさん持っていなければ出来ない。カネが無くとも氣があれば、心は豊かになる。ホンモノの武術武道を習う目的がここにある。弱い者を助けて強きを挫く、武の心は、強くなった自分が心の豊かさを持ってnobles oblige,  ノブレスオブリージュの実践をすることであったのだ。と言うのが、私の武術武道論である。この目的を理解出来ない武術武道家はホンモノではない。まして、武術武道をカネを儲ける道具にしたり、ウソついて武術武道の師範と自称する者はホンモノの武術武道家である訳が無い。

教育 Education

 教育を英語では、 Education  と言う。 Education  とは、 Educe  の名詞で、その意味は引き出して伸ばす、と言う意味である。武術においての修行の意味合いは修行する者のその武術における才能を伸ばすことにあると思うのであるが、それにはある条件下においてのみ成立する。尤氏長寿養生功の師母は道場生の誰にでも本格的に教えることは無かった。ある一定の基準を超えた者にその基準以上の訓練である站椿功を教えてジャンプの回数を増やし、勁を打つチカラの量を増やすのであった。英語で言うところの Education  を実践していたのであった。その武術の教育は弟子、道場生、生徒の体力、精神、本気度、素直さ、などの資質を師が見極めてから、本格的な修行が始まるのである。尤氏長寿養生功は長い伝統のワザを伝える百年前の武術家の師母が最後の伝承の方であるので、百年前の伝承の方法で伝えられたのである。その雰囲気を悟った私は、本格的に習うには毎日通い、師母に認められるしか習う方法は無いと思い、身の周りを整理して、過酷な訓練に耐えたのであった。汗は、五枚のシャツを絞って濡れ雑巾のように絞れるほどに濡らし、洗濯は毎日、一人では時間がないので、クリーニング店に持って行き洗って乾燥して畳んでもらう。食事は練習後に師母と中華料理の飲茶ヤムチャであった。修行だけに専念した。今、指導員と道場生を抱えて、基本的には、私が習った時のように同じ方法で指導している。私独自の世界を築いて、道場生の能力を早く引き出すことを目標としているので、多少は変化していると思うが、以前教えた者の人格と性格を吟味せずに教えて、カネの不祥事を起こして道場ののっとりも企てたので、今はジックリと観察してから上級のワザと訓練を教えるようになっている。尤氏意拳と言いながら実力もない者が別派を立てている状況ではあるが、初歩中の初歩しか教えていなかったから、それ以上の訓練とワザなどは教えることなど出来ることはない。以前、尤氏意拳の生徒が講習会に来た事はあったが、私の今いる指導員が教えられた型などと同じようにでたらめのとんでもない、自分で勝手に作ったものであった。それでは、伝統を受け継いではいないだろう。生徒の能力を伸ばすことなど出来る訳もない。私が私なりに解釈した尤氏長寿養生功のエッセンスは氣の交流をした道場生の人生を変えるほどの潜在能力が開発されるチカラが尤氏長寿養生功には存在することであった。その意味で、尤氏長寿養生功にはホンモノの、本当の教育があった。

経験

若いうちには、経験不足で、歳をとった経験のある者から習ってその経験を授かるのが、武術の世界の子弟関係と言えるだろう。何の経験無く、浅はかな一時の経済的状況が悪くなったという理由で、人のカネに手を出して、自分を師範と呼ぶ武術家も現れるこの世の中に、私の勁空勁のワザは三十年の間にさまざまな経験を積んで現在に至っているのである。経験こそが、自分のワザを磨く磨き砂となる。私は今でも、何十年も前に訪れた国での武術家武道家やスポーツ選手と試した氣の交流勁空勁を覚えている。失敗した時もあって、肩を押して来た相手の額が私の鼻に当たって、鼻血が出たこともある。それでも、楽しかった。一つ一つの経験が積み重なって、次の氣の交流に活かされて少しずつ成功例と成功率が増えていった。その経験が今の自分を作った。講習会の勁空勁の成功率は百パーセントになっている。経験の無い者はいつまで経っても同じワザの繰り返しで向上は望めない。哀れにも初歩のワザを死ぬまで続けることしか出来ない。

 

真似

人の真似をして生きる人生はどんなことになるのであろうか?朝起きる時と夜寝る時に人の真似をしていることに良心の呵責はないのであろうか?自分の資格と実力が無ければ、真似とウソは自分の格上げするには必要になる。私は人の真似をしたことはないので、その真似人間の心を探ることは出来ない。が、そんなことまでして何を成し遂げようと言うのであろうか?そこまで執着するものは何か?ウソと真似の無い人生こそが真の男が歩む人生ではないのか。私は今老齢期に突入した今、私の人生が楽しくて、面白くて幸せで、毎日を微笑み、笑って、豊かに過ごしている。尤氏長寿養生功を修練した後にこの氣功を教授するようになって、私の人生はますます幸せで豊かなものになった。私にも真似する人がいる。と言うより、目標としている。私の師匠である師母と師母のご主人であった、尤氏長寿養生功の創設者であるドクター尤老師である。尤氏長寿養生功を日本人として初めて、その勁と空勁のワザを習得して、あの厳しかった師母に認められて、今に至っていることに誇りと自信を持って尤氏長寿養生功の正統な流れを汲む自覚と責任を大いに感じている。そして今、この三十年の間私が開拓した私の世界を世に問う時期が来ている。真似の時期は過ぎた。私独自な分野とワザを構築している。僭越なこととは知りながら、三十年前からの人生に起きた流れに沿って、尤氏長寿養生功の正統なワザを使っているうちに自然に私の独自な世界になってきたのである。いつまで経っても真似で終わる芸術や武術はホンモノではない。挑戦と工夫の繰り返しを重ねて自分の独自な革新を加えることは真に伝統を引き継ぐことになる。真似だけで終わるものは価値の無いただのモノマネになり、伝統を引き継ぐこととはならない。私の真似ばかりしている者の真似は何の価値も無いただのモノマネである。

ウソ❸ 秘密のノック

我々尤氏長寿養生功のサンフランシスコの道場では、師母が外部からの部外者が道場にコッソリ来て、いろいろと探っていくのを嫌い、家のガレージを道場にして、道場に入る際にはガレージのドアをノックしてから、名前を聞いて道場生だけ入れるシステムになっていた。特に中国共産党から拷問を受けた師母は中国政府を信用していなかった。ドクター尤と一緒に腰まで浸かる水攻めでお二人とも、その拷問で後遺症も持っていたのである。そこまで新しく入って来る人間を警戒していた。神田真澄こと姜吉隆が単身一人で何の紹介無しに師母の道場に入門することは出来ない。苦肉の索で、私の息子と紹介して初めて面会してくれたのであった。単身自分一人でアメリカに渡り、師母の訓練を受けた事実などあるはずがない。師母に会うことすら出来ない。こんな秘密のノックのことまで知っているのは私だけで、姜吉隆自身は知る由も無い。あまりにウソをつくと、後でバレてしまう。「天網恢々疎にして漏らさず」。

ウソ❷

尤氏意拳がホンモノであると証明するものはたった一つしかない。師母に数年間、過酷な訓練の後に日本に帰国してから自分の新しい武術氣功を創設した、と言うならば、韓国のパスポートに出入国のスタンプが押してあるはずである。そのページをコピーして呈示してもらいたい。私が知る限り、アメリカに単身来たのは、私の家に泊まらせた一カ月の期間である。私は毎日二回師母と一対一の訓練をしていたので、姜吉隆が師母と訓練していたのならば、私が唯一の証言者である。当時、日本から来ていたのは私一人であった。一度韓国人の女性が来たことがあったが、それっきりで、戻っては来なかった。姜吉隆の姿を見たことは一度も無い。あとは東洋人と言えば、中国人だけである。尤氏意拳の姜吉隆が自分でホンモノの尤氏長寿養生功の流れを汲んでいると言うならば、その証拠を見せてみよ。パスポートの出入国のスタンプを見れば、どんなバカでもアメリカに滞在した日数が解る。証明出来ないのならば、やはりニセモノであって、自分にムリムリ箔をつける為にウソをついて自分の権威を上げた虚言癖のあるオトコと言えるだろう。さあ、どうする、イカサマ、嘘つき武術家のウソは暴かれた。出入国のスタンプを提出出来る訳が無い。そんな事実は無かったからだ。そんな殊勝な努力精進などとは無縁なオトコであるからだ。どんなことも自分のチカラで築き上げたものはない。尤氏意拳も自分一人で作り上げたものではなく、当時私の道場生の一人であったもう一人の日本拳法の中年の落ちこぼれた者と一緒に尤氏長寿養生功のニセモノの亜流として、尤氏意拳、と名付ける以外には方法が無かったからである。どちらも初歩の中途半端にしか習ってないので、ウソをついて格上げして生徒を集めて毎月の道場の経費、生活費を払うしかない。それが尤氏意拳の設立の一つの理由で、私から破門されたことも公表出来なくて、形だけでも「袂を分かった」とまたウソをつかなければ、カッコもつかない。また自転車操業をしてしまう。資格と実力がないので、ウソをつかなければやってはいけない。イカサマウソつき武術家の運命である。一旦ウソをついたら、ウソの連鎖で生きないとその後の話の正当性をキープ出来ない。ウソの上にウソを重ねるので、一つウソがバレると次々と今まで言っていたこと全ては崩壊する。自分の人生が崩壊するから、ウソはもっと大きくなって、今度は日本拳法のみならず、大本教の神様まで引っ張り出して来て、明光武道などと脳ミソの無い頭で考え出して、ついに深雪館などと突拍子もない名前まで飛び出して、自分の権威を守ろうとする。哀れで、アホな行為である。ドンドン複雑になって、誰にも理解出来ない内容になって行く。あと五年、十年後に生徒が教えることになる時にはどんな名前になっているやら、暖簾分けなどは出来るはずもない。その行く末は誰にも分からない。尤氏意拳の宗家創始総師範にも分からないことである。人間の欲望と名誉心権力欲は醜く、果てしない。その先は本人にも分からない。滅亡が待っているのはウソをついた人間の歴史が証明している。

ウソをつきし者

自分に自信がない者で、社会で名を売りたい者で、修行はしたことはない、修行をしたくない者はウソをついて、修行はしたことにして、尤氏長寿養生功の真似ごとを見せて、尤氏意拳と言って、その実は日本拳法であるモノをムリムリ尤氏長寿養生功の流れを汲んでいるかの如き印象を与えて商売にするしか方法は無い。私が一時期教えた者がこんな恥な日本武術史上前代未聞の事件を起こして教える資格と実力も無い者が多数の日本の社会人を騙して、迷惑をかけている事実に対して、私は怒りと責任を同時に持って、何とか新規の生徒の入会を阻止して、今集まっている落ちこぼれ日本拳法の者たちにも尤氏意拳を脱会するよう尽力しているのである。私が教えた初歩中の初歩の誰にでもできるワザを以って、尤氏長寿養生功の全ては自分で過酷な訓練を敢行したと称しているのには大きな無理がある。それならば、私と同じように海外に行って、その尤氏長寿養生功の秘技とやらを使い、その神業の大した実力を認めさせて巨人を投げて、押し寄せる病気の患者を治してみたらどうか?せめて腰痛の患者の痛みを取ってみたらどうだろう?口でばかりで、出来る、出来る、と言わないで私がすることと同じことができると言うならば、やってみろ。そしたら私は尤氏意拳がホンモノと認めよう。いつものことであるが、口だけならば5歳の子どもでも出来る。歳が五十にもなって、いつまでも口だけの、落ちこぼれの人間に囲まれてしか、武術を出来ないのならば、その武術はやはり、ニセモノと言われるだろう。人を欺き、ウソをつき続ける人生ほど、最低で、ツマラナイものは無いだろう。自分の資格と実力に自信があれば、堂々と、私のように日本と世界で、自分一人で、渡り歩けるというものである。私の履歴と資格と実力には、私は自信を持っている。ウソ偽りは微塵も無い。来るなら来い、である。