価値観

人によって、何を一番大切に思うかということはさまざまだ。ある者はカネを握って離さない。私は歴史に名を残した芸術的な武術が廃れて消えようとしていた最後の刹那にこの氣功武術を世に残すことに価値を見出したのである。当時月謝は他の同輩道場生の五倍七倍払っても惜しいとは思わなかった。消える運命にあったものを命をかけて修練して世に残すことに私の価値観を満足させたかったのであろう。意拳そのものが中国の歴史書に登場するほど価値のあるものであるのに、尤氏長寿養生功は伝説として扱われて、ドクター尤老師の死後、師母一人が受け継いで教授していたのであった。こんな状況の中で、少林寺拳法を辞めた後に私は千載一遇の機会を得て、尤氏長寿養生功を学ぶことは私の為にまるで用意されていたようなものではあった。私の東洋医学の仕事を中断して学ぶことは当然なことに思えた。家財道具一切を処分して月謝を用意した私を嫉妬して、あるアメリカンは私を「おまえは金持ちだから毎日訓練出来ているんだ」と的はずれなことを私に言ってのけた嫌味なナメクジのような者もいたのであった。そんなに羨ましいならば自分の食いものを減らして月謝を払って毎日来るだけの勇気もない者は週一回来るのが精いっぱいであった。私より四、五年先輩のオトコを追い抜かすのは二、三年で充分であった。目先の既得権やカネに執着心を持つ者はすぐに消え去ることに価値を認めて結局大成しないが、長く保つことに価値を認めて修練に励む者はカネと既得権以上のものを手に入れる。私は既得権やカネ以上の尤氏長寿養生功を自分のものにすることが出来たのである。価値を何に求めるかで人生が決まる。このオトコは学生街のバークレーと言う町で、自称太極拳の先生に収まっている。それ以上の尤氏長寿養生功の先生にはなれなかった。