パクリと利用

この題名を見て、もしその人間に良心というものがあるならば、手を震わしながら読んでいるだろう。尤氏長寿養生功を無料で教えた師匠の私をパクリ、大本教の難波先生をパクリ、食制の井上先生をパクリ、尤氏長寿養生功を利用し、日本拳法も利用して明光武道尤氏意拳なるキテレツな新氣の武術を立ち上げた者はパクって利用して自分の人生の中で、大きな仕事をした、と思っているようである。もし、私が敢行した七百二十万回のジャンプと四万四千時間に及ぶ瞑想と同じかそれ以上の修行をしたと言うならば、私はその武術を認めよう。師母亡き後に日本人では私しか尤氏長寿養生功を知る者がいない現状では、ジャンプはしたくても出来ない。瞑想も次の段階の瞑想を習わずにはしたくても出来ない。今の初歩の站椿功を続けるしか方法は無い。死ぬまで、グローブをはめて殴り合って初歩の瞑想だけ教えて、生徒は次の段階には進めない。これは氣の武術である、とウソをつくしかない。しかも、利用していることが、もう一つあって、大本教の教えさえも利用して、新武術の教義としている。なんとまあ、自分の創始したものや作ったものは何であるか?自分には世に出して見せ開かすものがないから、これは利用出来ると思うことはどんなことでもパクって利用する。ひとつ自慢出来ることは日本拳法でやっとこさ、

私が手伝って取った日本拳法のチャンピオンの称号だけである。パクリと利用がなければ、武術でメシは食っていけない。さて、くすねたカネも使い果たして、つぎに泣きつく人を誰にするか、次のパクリと利用するものは何になるか、私にはもう検討がついている。瞑想の効果の情報と医学の情報をパクリ、利用して、何も知らない新規の生徒を集めることが次の一手である。こんな自転車操業はもうすぐ破綻する。