資質

私の経験では、人間が切羽詰まって右へ行くか左へ行くかと言う決断を迫られる時には、普段、いかに口でカッコよくうまいことを言っても、最後には呆れるほどにケツをまくって、逃げたり、仲間を裏切りカネを選ぶ者がいる。この崖っぷちに立たされた者がそんな時に取る行動は先天的にその人の持つ資質によって左右されるものと思われるように、私はなっている。後天的に本で読んだり、武術によって鍛えられた精神と言うものは当てにならない。ある武道では、その武道によって培われた心で社会を変えると言ってはいたが、絵に描いたモチのようなもので、私には信じられない。そうではなくて、良い資質のある者がたまたまその武道を信じてその武道を選んだだけのことであった。私は一人の持つ良い資質を最大に発揮できる環境に置いて、その者の才能を伸ばしてあげることしか武術武道の役割は無いように私には思われる。武術武道が人間の徳性を増すことはない。人間の欲望を抑える心は先天的に持っている資質によると思うようになった。氣の優しい者は元々優しいし、性格のキツイ者は元々キツイのである。カネを追う者はいつどんな時にもカネが気になり、師匠を裏切り、仲間を捨てる。人を愛する資質のある者はどんなに貧困に陥っても、師匠を大事にして、仲間を裏切ることはない。資質こそはその人間を信じられるかどうかの人間性を判断する基準になるものである。中国人は十年の年月をかけてジックリと弟子の人間性を観察して武術の極意を授けるということをする。私の師である師母が私を二十年の間、私が訓練に通う姿を見て、私を信じた後の私への扱いはまるで、家族に対するようなもので、師母は私の母のような存在となった。ある者は私を父と呼びながら、私の道場を乗っ取り、私の死を願っていた節もある。