人間性

どんな武術も瞑想も芸ごとも究極に問題となるものは何と言っても、その携わる者の人間性であろう。私の太田氣功道場に集まる者は実に個性に溢れている。私はその個性を大事にして、さらにその個性を 伸ばして、他の者がマネ出来ない、彼独特なものに育てるべく、ジャンプなどのやり方などには特に口を出さない。しかし、個性の前には人間性がもっと大事だ。私の指導員と道場生は心優しく、ユーモアを解し、身体障害者の私を支えて、道場の運営を自主的にしてくれるのである。その人間性は時として私の師としての存在である。尤氏長寿養生功の伝承はワザを伝える道場生の人間性を見極めた上での伝承となるから、普段から、入門する時と上級者の練習に参加させる場合にはその人物の人柄をチェックしての入門と昇格となる。私の信頼の置ける者たちが指導員と道場生なのである。途中で道場に砂をかけるようにして出て行った者たちの人間性ももっと注意深く見ておれば良かったのだが、あれほど慇懃で無礼な者たちには太田氣功道場などはたやすく入って来れたであろう。大分警戒をしてはいたが、そして顔相も人前に出たがりの 人相を呈していたのであったが、事情で情けをかけて、裏切られたのであった。人間性をも隠せる強欲で猫をかぶる人間であった。とにかく全て教える前に出て行って良かった。こんな人間性の者には上級のワザは教えることなど出来ないが、今私を支えてくれる指導員と道場生には私の知る限りのことを教授する。教授しなくてはいけない。あと何年か経って、ワザを比較された時には明らかなホンモノとニセモノの違いが見ただけで分かるだろう。ジャンプや基礎訓練を見ただけで、それを行なう者の人間性が分かる。顔つきや動作に何処かしら、変に傲慢で、いやらしい仕草が現われるものである。自己顕示欲とカネへの執着心と傲慢な心は言動となって、つい口から出てしまう。修行半ばで、傲慢にも自分の道場を開けてしまうその人間性は私の指導員と道場生の人間性には遥かに及ばない。おそらく、私の氣功のチカラは今、ピークを迎えている。この氣を私の指導員と道場生は次世代に受け継ぎ、良貨は悪貨を駆逐するようにホンモノがニセモノを駆逐するだろう。人間性は瞑想で作られるが、そのプロセスはとてつもない時間の修行が必要である。