バブルと瞑想

1980年代に日本がバブルに浮かれて、街の中を一万円札が飛び交っていた時には私はアメリカのサンフランシスコで站椿で大粒の汗を流し、瞑想して氣の養成に専念していた。多くの日本人が、目に見えるものであるカネやモノを追いかけている時に私は目に見えない氣である勁空勁を追いかけていた。バブル崩壊で全てを失った者と、氣である勁空勁の 全てを習得した私との違いはここにある。

見えるモノは一時的なもので,形あるものはいづれ壊れて消滅する。一方で、見えないモノは永続的で、見えるモノを支配する。見えないモノを訓練する道場に入りながら、見えるモノを追いかける者は道場には居続けることは出来ない。見えるモノと見えないモノとのバトルである。見えないモノが見えるモノを支配する限り、勝敗の結果は明らかであろう。

健康と長寿が目的であって、勁空勁は手段であったはずなのにカネや売名自己満足が目的となってしまい尤氏長寿養生功の道から外れてしまったのである。手段であるはずの瞑想と勁空勁が目的になって彼らの盗み取るターゲットになった。