結束力、一枚岩

今朝瞑想をしていて、閃いたことがあり、ずっと考えていた。なぜに日本でも、タヒチでも、こんなにもことがスムースにうまく運んでいるのであろうか?ということを考えていた。あの二人の人間たちが道場にいた時にはギクシャクして前に進むことが難しかった。考えてみて良く分かった。一人は私の背中の裏で短剣を持って私を刺すように、道場のっとりを狙い、ことごとく、私を一般道場生に会わさぬようにしていたし、もう一人は冷たい心で、尤氏長寿養生功のイロハを盗み取り、パクってやろうと暗い雰囲気を醸し出していたので、道場が明るくなっていなかった。前に進もうと思っても重しをつけられてブレーキを踏まれていたので、クルマは前には進まない。当たり前のことである。今では、この二人の邪魔はいないので、自由に足枷が無く、動き回れるのだ。同じ志しを持ち、道場のみんなが一枚岩になって結束力を固めれば、何も出来ないことはない。そしてリーダーの統率力と卓越したビジョンと教授する内容が必要である。私が受け継いで武術と瞑想の一体化したシステムを二分してそれぞれに分断して師匠ヅラをぶら下げて、師範、総大将と自分で名乗る者たちの教える内容を良く読んで見るが良い。自分が食ったどうでも良い食レポを自慢げに掲げて武術を口にする。もう一人はあまりにたくさんの自分の出来ることを並べて、自分でも何を教えて良いやら、何でもござれ、のまるでデパートの商品の展示物のように並べて、どれでも好きなものを買ってください、と瞑想とはまったく掛け離れたビジネスを展開している。武術家が食レポをやり、瞑想家がいろいろと別々なものを売っている。こんな者たちが団体を結成する理由はカネ儲けが目的であるから、団体を作る理由は不純で私的な野心でいっぱいである。一方で、私はカネ儲けは氣功では考えていない。氣功は人集めの手段であって、私の私的な経費は自分で、タヒチでの鍼灸医院の運営で賄い、氣功から上がる収入は全てマナ氣功協会の世界発展の為に使うのである。太田氣功道場は一時的な通り道であって、太田氣功道場の個人的な発展を考えているのではない。尤氏長寿養生功が日本のみならず、世界に届くように集まる者たちの結束力を強めたい。幸いにして、日本の太田氣功道場には私と指導員の結束力は、あのブレーキを踏んでいた二人はもういないので、我々は一枚一枚うとなっている。タヒチに於いても、二人の指導員を得たその後に能力、人物、が抜群な道場生が続々と集まる気配を見せているのである。あの邪気いっぱいの二人との経験を最大に生かして世界に向ける団体の運営では、二度とブレーキを踏まれないように最大の注意を払っているところである。なにごとも経験であるとはいえ、失った彼らとの時間がもったいない。私の残された時間も限られている。全てを教えなくて良かった。チョット教えただけで、すぐにいっぺんに師範と言い始める者には目的がない。私的な自分の我欲追及があるからには、生徒はついては来ない。決して一枚岩の結束力を得られない。