無常

仏教の最大のテーマは人間の持つべき哲学は無常、すなわち全てのことやモノ、人、は常にある、永遠に存在することはない。と悟り、執着から離れることが人間が幸せに生きることになるのである、と釈尊が何千年も前に喝破していたことである。この旅の成果と言うか、身を以って感じた事が、無常、と言うことであった。私のあれだけ私には勿体無いほどの美人であった最愛の妻は他界し、タヒチで三十年ほど前に知りあった友人の父親も亡くなり、当たり前な話であるが、年をとり、おじいちゃんとおばあちゃんになって、息子たちが代替わりしていた。私も鉄人のように強かった脚がケガが原因で、弱くなって杖をついている。全ては移り代わり同じところに留まらない。そして不思議なことに私だけが若く見えて、目のチカラは誰よりも強かった。師母が教えてくれた氣功のおかげであった。生老病死の自然の摂理に逆らう気持ちはサラサラ無いが、一度生まれて神様からもらった生命と人生を大事にして悔いの無い生命と人生を全うしたいものである。武術武道に携わって半世紀、五十年間に出会いのあった武術武道は数多い。その中でも、最も印象に残って、今この時でも一秒でも一分でも訓練を続けたいと思わせる武術武道は尤氏長寿養生功である。今、私は武術武道と尤氏長寿養生功を呼んだが、尤氏長寿養生功は武術武道ではない。読んで字のごとく、健康長寿養生法なのである。しかし、その基本訓練が武術の基礎訓練なのであった。しかも、意念と氣を開発したチカラで相手を制する特殊な武術である。たったさっき、日本とタヒチはこんなにも遠く離れているのであるが、ビデオ電話で私の指導員たちを目のチカラで投げ飛ばして、あたかもその場に居て指導しているかの如く、練習を終えたばかりだ。そんなバカな!と思うだろうが、テレビ電話で、個人の講習と治療は大分前からやっている。氣は空間を越える。目の氣のチカラで相手を投げるということなどは他の武術武道ではありえない。私は私に奇しくも与えられた尤氏長寿養生法の教授の機会を無駄にせずに行き着くところまで行ってみたいと思っている。幸いに初回の接触で武術的に投げられるようになって、医術的に治癒することができるようにもなっている。チベット密教と結びついたこの世にも不思議で稀な武術尤氏長寿養生功を私は愛して止まない。師母とドクター尤老師の意志をついで私は世界を相手にかけ抜いている。