ホンモノとニセモノの違い

ニセモノはホンモノを見よう見真似で自分の団体を立ち上げる。私の太田氣功道場から夜逃げするように抜け出て、何の実力も無く、私の許可も無く、自分の団体を立ちあげた二人のニセモノは我々の知的財産を盗み、利用して自分の生活費を稼いでいるのであるが、私はこれら私のマネをしたニセモノに対して糾弾を続けている。これらニセモノの暗躍に反してホンモノの尤氏長寿養生功を教授する私はタヒチに拠点を移そうと考えていたのであるが、それを断念して和歌山の山奥の過疎村、龍神村に移り住んで、同時に海外への進出を果たそうとしている。ニセモノは日本に居ても、自分の団体の存続をさせることに汲々としていることだろう。ニセモノがいくらホンモノをマネしてもどんなに汗水垂らして頑張っても、ホンモノにはならないはずである。彼らがホームページでどんなに粋がっても、彼らが歳をとって、老人老婆になっても、私の年齢ぐらいになった時に果たして、私の今持っているワザと境地に到達出来るだろうか?実力も無いニセモノは、ニセモノのレッテルを貼られたまま、三流、四流の誰も振り向きもしないただの三流、四流のニセ格闘技とニセ瞑想の団体として自分の人生を終えてしまうだろう。悪意のある彼らの行為を心からの謝罪が無ければ、私が世界に向けてこれより先に出版する英文の本や仏語の本に彼らの実名が刻まれることになる。仮にも、一時期同志として一緒に訓練した仲間であったからそんな破門者として永久に名前を刻むことなどは、私の本意ではない。あまりに大胆不敵な態度で尤氏長寿養生功の名前を汚す行為に私が破門を決意したのである。今の私の指導員の力もないのに一派を立てたり、瞑想の大家と自称する姿は醜く、あさましい。一体どんな風に教えているのか見てみたいと思うが、想像はつく。どうせ、自分が何も知らない、出来もしない穴を埋める為にウソをつく姿は想像するだけでヘドが出そうになる。一方の私は道場生にはウソをつく必要も無く、ありのままの自分で自分が習ったこと、習ったことを基礎に自分が深めて開発したワザを教授している。人のマネではない。真に自分の世界を表現する。真実ほど力のあるものはない。私には自信があって、ニセモノには自信がない。ニセモノはホンモノに見せようとしてありとあらゆる権威を利用する。誰よりも自分自身が一番良く知っている。自分にチカラが無いこと、ホンモノでは無いことを。なにより自分の師匠筋を明かせない。自分が教えているものの由来を曖昧にして、神様の名前を使ったり聖地と言われる場所での瞑想を写真に撮って掲載したり、自分が自慢する容姿を自慢げに強調したり、とあらゆる教えることとは無関係のことでごまかしている。医師の資格も無いのに医療のエキスパートとしても装わねばならない。全て私への嫉妬と競争する為の苦肉の策である。そんな姿を見る度に私は彼らに哀れみを覚える。ニセモノは死ぬまで、ニセモノの姿を晒し続ける。ホンモノは常に新しいものに挑戦し続けるのである。そしてひとつづつ成功する。