素質と才能

どんな分野でも道を極めるには、そして、その分野で名を残そうとすれば素質と才能が必要であろう。私には武術やスポーツの分野では素質も才能も無かった。以前関わった武道では始めは大学で教えてもらった先輩で師匠のサンドバッグであった。もっと深く関わって両肩の関節を抜きかけたり、手首の関節をチカラの限り捻られて大根のように腫れたり、蹴りの練習を集団でしている時には後ろにいた拳士に腎臓の裏側を間違って蹴られて悶絶したこともあった。武術の素質も才能もあったものではない。しかし、尤氏長寿養生功の欧陽敏師母に出会いがあった時から、並みいる先輩道場生は四年も十年も先にスタートして通氣にもなっている先輩と肩を並べるには、私の全精力全財産を傾けて、毎日師母と訓練しなければこの世界に一つしか無い武術氣功を習得することが出来ないと思い、努力と精進を重ねたのであった。師母がご高齢で、通氣をいただくには時間がないと理解したのでもあった。素質と才能は生れながらにあるものではなく、努力と精進を重ねている間に素質と才能が生まれ育つものであると私の体験から悟ったのである。素質と才能が初めからある者などはいない。手足が長いとか身体が大きいとか生理学的に有利なものはあるだろう。が、氣など の目に見えないエネルギーは体格の大小とは関係は無い。王向齋老師は身体は大きい方では無かった。しかし、爆発的な氣の持ち主であった。武術の理想究極は身体の小さな者が大きい者を制することである。その意味でも、氣を訓練することは意味があるのである。努力と精進を重ねて、継続すること自体が素質と才能であると私は強調したい。