功夫

功夫についてチョット触れたので、もう少し掘り下げて説明をしたいと思う。日本の武術には功夫のコンセプトは無いと私は思っているが、中国の武術家にとっては、功夫こそが武術家にとっては生命線である。突きも蹴りも功夫が無ければ、ボクシングで言うノックアウトが出来ないボクサーと同じで、私がいつも言っているハナクソ武術家と酷評する者が功夫を持っていないと言うのが、大きな理由である。功夫は中国語でゴンフー、またはカンフーと発音する言葉であって、中国の武術、医学の中で、基本の氣が蓄えられたエネルギーのあるチカラを指す言葉とコンセプトなのである。功夫の無い者が、どれほど虚勢を張って、オレは総師範である、とか神様のチカラを借りて新、和の氣の武術を創立したと豪語しても、チョット動画を見てみれば、たちどころにどれほどの功夫が備わったワザであるかは知ることができる。形だけの、私のモノマネであることは一目瞭然だ。特に尤氏長寿養生功に於いては、意拳を源流とする武術氣功であるから、氣の蓄積された功夫が全てである。功夫は一年や五年で作られるものではない。まして、私から一ヶ月しか学んでいないのに、師範となることがあるはずがない。自称しているだけのことはすぐ理解できるであろう。また私から三年しか学んでいなくて、瞑想の大家になることはないのは誰が考えてもあり得ることはないと分かるだろう。二人共に自分で言っているだけで、私が認めることはない。前に言ったように、功夫は宇宙と地球と一体化して作られるエネルギーを背景にした技術、ワザのことを言う。そして、その功夫は尤氏長寿養生功の場合、弛まぬ毎日の瞑想と師と一対一の厳しい訓練修行の末に作られるものであるから、師母が七十年、私が三十年、の長い年月の修行の後にできる功夫なのである。東洋の最大の基礎基本のコンセプトである氣の内容はこのような訓練修行によって構築されるものである。考えの浅はかな者たちは西洋人のように単なる技術として、私から簡単に習えることに思ったようだが、そうは問屋はおろさない。また、師のいないところで悪態をつくような不届き者が作る功夫がどんなものであるかは、予測がつくだろう。純粋 に教えてください、と言う従順な心、武術に対する真摯な態度、師とのあいだにある信頼関係など、弟子の方に求められる姿勢が大きいことはもちろんのことである。中国では武術の師は実の親より大きな存在なのである。日本で功夫が育たない土壌であることはこのことからも理解できるだろう。私は通氣になった後でもこの氣功武術を教えてやろうと言う野心は持たなかった。私の心身の変化を見届けたいと言う単純な理由があった。カネやモノへの執着心は消えていた。文化芸術や伝統を守り、正しく継承することで私の頭はいっぱいであったのである。私の生活は極端に貧しかったが、自分の功夫が強く大きくなっていることで、貧しいとは思えない。むしろ、心に余裕がある。心は億万長者であった。武術家に会えば、投げ飛ばせる、病氣に悩む患者には即治出来るチカラが自分にあることで、自分自身に揺るぎない自信があった。これが真の功夫である。そして、今は日本全国、世界はタヒチ、スイス、ドイツに行って私の功夫を試しに行ける。功夫を基に鍼灸の講座、私が作った氣功整体の講習会を開催出来る、どこまでも自由に,人々に私の功夫を分け与えて人々を幸せにできる。私は尤氏長寿養生功を訓練修行したことによって、私が真に自由で幸せになった。大恩あるドクター尤老師と師母には感謝の念しか無い。