好きこそものの上手なれ

どんなことであれ、人は心の底から好きなものに対しては熱心に情熱をもって努力するから上達は早くなる、と言うことわざである。1987年に尤氏長寿養生功と出会い、最初の站椿功で一時間立った後に身体がガチガチに固まって、その場にバッタリ仰向けに倒れて寝転がっていた時に去来した何か私を突き動かす感覚があった。それは、この訓練を以前どこかで習ったような懐かしい不思議なデジャヴーのような微かな記憶だった。もしかしたら、私が前世において站椿功を訓練した先人たちの一人の生まれ変わりであったのだろうか?生まれ変わりであろうがあるまいが、私が尤氏長寿養生功をその時に好きになったことは間違いない。それ以来、この尤氏長寿養生功に私の人生を賭けて来た。尤氏長寿養生功を教える野心があったから学んだのではない。私の身体に変化が現れて、その変化が少しずつ変わっていくのを毎日感覚的に分かるので、それが私には面白くて訓練修行に打ち込んだ。何年か経ち、いつのまにか勁が出来、空勁が出来るようになっていた。たった一人の日本人であったから、先輩、同輩からイジメもあったし、締めつけもあった。文革で拷問を受けた師母は私に冷たく当たり大声で怒鳴られることもあったけれども、尤氏長寿養生功が好きで、師母がドクター尤老師の唯一の後継者であったので、私は堪えることが出来たのであった。私には尤氏長寿養生功を学ぶに才能が無いのは初めから分かっていた。先輩たちは私よりも四年も二十年も前にスタートしていたから追いつく為には毎日訓練するしか方法はないと思い、毎日二回、七時間練習に通った。結果、師母を毎日追いかける形となってついには師母を毎日送り迎えするようになった。練習後のランチや夕食の時には師母の隣の席に座るようにもなっていた。新車であった車は十年ほどで廃車となった。走行距離は二十万マイル、三十二万キロにもなった。私が日本で教えるようになったのは、複雑ないきさつがある。テレビ局から招待があって、勁空勁を紹介してくれ、と言う。私は師母を日本にお連れして師母が私を投げ飛ばすことを考えていたのであるが、テレビタレントを投げて欲しいと言うのである。師母が日付変更線を越えたくない、と言って結局のところお前だけ行って来い!と言われて私が行くことになったのである。私は海外で初対面の武術家とスポーツ選手に勁空勁を試していたので秘かな自信があった。そのテレビタレントと言うのがダウンタウンであった。私にはどっちがダウンでどっちがタウンかも分からない。アメリカでは日本のテレビは見られないからだ。テレビでの勁空勁が成功して大反響となった。私には尤氏長寿養生功を日本人に知って欲しいと言う想いが芽生えた。また師母がお前はもうすぐ日本に帰るだろう、日本で教える時には誰から習ったかを明らかにして教えろ!系統と師匠スジを忘れずに伝えるのだ!と言われるようになって教授の許可は無言の了解となっていた。別れの時には金の指輪と師母の若い時の写真を渡された。それが私が日本で教えるようになった本当の経緯である。私の野心で教えるようになったのではない。自然と状況が周りから、師母から教えるように状況が準備されていったということである。心の底から好きであることに情熱を燃やしていると、何かのチカラが背中を押して周りから助けられる。これは今では私の確信となっている。好きではない、ただ我欲と野心を持って尤氏長寿養生功に近づき、勝手に自分を師範と呼んだり、大将と呼んで実力資格のない道場を開く者には背中を押してくれるチカラなどの助けなどあるはずはない。心の底から好きなことに熱中すると、何かの機会に自分を引き上げてくれるチカラと出会う。それを運命と言い、天佑神助と呼ぶ者もいるだろう。努力精進は報われる。私はそれを今でも経験している。必要な時に人との出会いがある。必要な時に必要なものが手に入る。不思議な縁がある。ほとんど日本には、さまざまな武術や呼吸法があって、触れずに人を投げ飛ばす技術を見せているが、ほとんどが古参の弟子との氣の交流であって初対面者とのものではない。私の築いている世界では、初対面者との勁空勁である。初めのうちは失敗することも多かったのであるが、研鑽と研究を重ねて今では成功率がほぼ100パーセントになっている。好きなことに専念していると、不可能と思われることもできるようになってくる。