才能と自信

何かを学ぶとすれば、才能があるとかないとか天才であるとか取り沙汰されることがある。私が勁空勁を出来た時も私に才能があったとか天才だとか言われた時もある。そんなことはない。私に武術や瞑想の才能などは無かった。無かったから毎日、毎日飽きもせずと訓練に通ったのである。もし、才能と言われることがあるとすれば、それは毎日継続する能力のことを言うに違いない。そして自信が湧いてくる。またさらなる研鑽と工夫があり、自信がもっと強く大きなものになる。ところが、このプロセスを理解出来ない者は自分の才能が無いのに過大な自信を持って小さな能力を過信する。そんな者を見るにつけて、私の修行は間違いの無い真っ当で正統なものであったと、さらに自信を持つのである。尤氏長寿養生功を教授することは大変にむずかしい。それが武術や瞑想に分断してバラバラにした者はチョットの訓練で、師範になったと自分で言って道場を開いてしまった。小さい才能と大きな自信と言えない過信、これは自分の人生を誤るタネになると私は考える。私の自信を持つ鍼灸治療と氣功でタヒチの人々の健康を守り長寿養生の達成に私の能力を発揮したい。